アイデンティティ=?

こんにちは、Erinaです。

 

このブログでもしばしば取り上げている「アイデンティティ」。

という記事も書いてみました。

 

日本では、中学~高校の保健や倫理の授業などで取り上げられて、この言葉を知った人が多いのではないでしょうか。私もそうだったと思います。

この単語は、「日本ではよく聞くけど、アメリカではあまり聞かない」という単語の一つで、文化的な違いもあるんだろうなぁと興味深く感じます。

 

ではでは、私が思うアイデンティティについて書いてみたいと思います。

 

 

みなさんにとって、アイデンティティってどんなものでしょうか?(What is identity to you?)

 

そして、みなさん自身のアイデンティティって何ですか? (What is your identity?)

 

 

私が思うアイデンティティとは、「自分の居場所」のことであり、現在の私にとってそれは、家族・仕事・趣味・経験・目標・友人たちなど、時間をかけて築き上げてきたもの。

もちろん、そこに行き着く過程でどう感じたか、どうプロセスしてきたか、というのは生まれ育った環境で習得してきたものに左右されています。

 

転職や引越し、結婚や出産などで、アイデンティティクライシスに陥るというのは、それまで築いてきた居場所がごっそりとなくなってしまったり、新しいものが上書き保存されてしまったことで起こると私は考えます。

居場所というのは、自分を必要としてくれる存在であり、それがある日突然なくなったり、新しく上書き保存されてしまったら、戸惑うのは誰しも当たり前のことでしょう。

そういう意味で、「変化」というのは楽しみでありながらも恐怖であり、それを好む人もいれば、好まない人もいるわけです。

 

 

私がアメリカにやってきたのは19歳のとき。

年齢が若いと、持ち合わせているもの(過去や経験)が少ないわけですから、変化にも割りと柔軟に対応できたわけです。アイデンティティである築き上げてきたものもそれほどガッチリとあるわけではありませんでした。

 

つまり、「日本だったらこうなのに・・・」という自分を引き止めるものが少なかったので、アメリカへのassimilation(同化)もすんなりと行ったわけです。

これがきっと今だったらそうは行かないだろうな、と思います。これだけアメリカ好きな私ですが、やはり人は年齢と共に色々な荷物が増えるものだし、それを全て下ろして、また一から、というのは誰にとっても大変な作業です。時間もずっとかかるでしょう。

 

 

 

私が思う「アイデンティティ」とは、自分の居場所であり、自分が自分らしくいられる場所のことだと思っています。

 

つまり、個人として制限されずに自己表現ができて、自己肯定感を育てられる場所。

 

私が自分の子ども達を育てる上で、「学校以外で何か出来たほうが良いな」と直感的に感じたのは、この「居場所作り」という作業のことでした。

 

水が大好きな息子には水泳を習わせ、アートが大好きな娘にはアートをやらせる。

 

これが私の行き着いた結果でした。

 

私も子どもの頃から泳げますが、チームに入るほどではなかったし、アートのセンスなんて全くありません。(娘のアートの記事はこちらで)

だけど、息子と娘を「個人」として見た時に、母親の私にも、父親の旦那にも備わっていないものを彼らが持っているのは当たり前のことであり、それを使って子ども達が自己表現できる能力を、親として応援する必要があると思ったのです。

ここで、「親の私が好きだから、○○を子どもにも強制する」というのは全く真逆のことです。(子どもがやりたいならもちろんオーケーですけどね)

 

私はこれに気づいたとき、アイデンティティというのは親から与えられたいわばトップダウンのものではなく、子どもが自分自身で育てていくボトムアップのものだとわかりました。

 

アイデンティティ

 

イメージとしては、この写真の「芽」のようなものです。

「親から与えられるもの」というのは、雨とか太陽光とか外部からの刺激ですが、実際にそれをどう使ってどう成長するか?というのは、「子ども=芽」自身によりますよね。どうやって葉を広げるか、それともニョキニョキと背丈だけが大きくなるか、遅咲きなのか、どんな植物に成長するか?というのは雨や太陽には決められません。私は植物が好きなのですが、子どもの成長も同様で、必要なものを吸収し、彼らが自分らしく育つのを見る楽しさがそこにはあるわけです。

そして、こうやって「自分のやりたいこと」を知って、持っている子どもというのは、将来、アイデンティティクライシスに陥ることが少ないのではないかと思っています。

 

 

私が「アイデンティティ」という言葉を (“Identity Theft”以外で)アメリカでなかなか聞かないのは、アメリカで生まれ育つ子ども達は、幼い頃から「自分はこうです!」と自己表現するのが当たり前の文化で育ってきており、思春期~若年期の頃には、自分というものがある程度、確立されているからだと思います。

プリスクールでは「自分」についてのプレゼンテーションがあり、小学校では参加型の授業で常に発言しなければなりません。

娘の親友Mちゃんは、3歳上の姉がいるのですが、現在の習い事は「お姉ちゃんがやってるから私も」というものが多いそうです。しかしMちゃんのママは、「姉がやっているから」ではなく、「Mちゃん自身がやりたいこと」を教えたいと模索しています。

これがやはり、アメリカは「個人主義」と呼ばれる理由であり、たとえそれが姉であれ、親であれ、「自分とは個別の存在だ」と認識する子育てがされているからでしょう。

 

逆に、日本のように、幼い頃から、「右向け右」が当たり前の環境で育ってきた場合、思春期に入って「自我」が出てくる頃になると、周りとの違いに戸惑い、その差異をどう受け止めてよいのかわからない子ども達が増えてしまいます。

「今までみんな一緒だったのに、どうして私は違うの?!」とショックを受けてしまうわけです。「他と違う」という存在に強く憧れたりするのも日本特有だなと思うのです。

なので、その頃になると「アイデンティティ」というものが急にビッグディールになってしまうのでしょう。

 

私はここで、どちらが良い悪いという議論をしているわけではないし、もちろん個人差もあるでしょう。

私のように幼い頃から周りの目を気にせずに、マイペースで変なこと(笑)をやってきた日本人は、どこに行ってもサバイブできるだろうし、アメリカ人だってホームシックを感じて、生まれ育った町に戻る人がたくさんいます。

 

ただ、一般的に考えて、幼い頃から「自己」を確立してきた人というのは、どこに行っても誰と一緒でも、環境に左右されることなく、マイペースに生きていける人が多いなぁというのが、私のこれまでに出会った人たちを見ての感想です。

 

みなさんはどう思いますか?

 

 

 

 

 

 

“アイデンティティ=?” への2件の返信

  1. こんにちは。以前、日本語(第二言語)を教えるかどうかの記事でコメントしたAyaです。
    「自分が何者であるか」を自分なりに把握すること、つまり「自己の確立」をすることは、自信を持つこと、自尊心を保つことにとって重要ですよね。
    この、「自分が何者であるか」というのは、自身の経験や自分が頑張ってきたことの他に、自分のルーツを知ることというのも重要になる場合があるんじゃないかと思います。自分の両親を知ること、祖父母やある程度の祖先を知ること、あるいは知ろうと努力し、ルーツについて考えたことで(十分な理解は得られなくても)自分に対して自身で存在を認識できるというか、自己肯定感を確実なものにできるというか(なかなかうまい言い回しが見つからないのですが)そんな気がします。
    一方、そんなことは全然気にしない類の人間もいるので(私の主人がそうです)、私の思い違い、独りよがりということも否めませんが・・・

    勝手につらつらと書きましたが、政治の話、キャリアの話、子育ての話、どれも興味深く読ませて頂いています。これからも楽しみにしています。

  2. Ayaさん、こんにちは。
    いつもコメントありがとうございます。

    自分の祖先やルーツのことを調べたり、知るという勉強はアメリカでもされていますが、そこから得ようとするものが日本とアメリカで違うなと感じます。
    たとえば、日本は血族主義が強く、血縁という自分じゃなんともできないものが家族の定義になったり、自分がどこに属するかと認識できることが大事というか、そういうことで安心を得られる。言葉もそうで、日本語が話せるから日本人、というか日本人なら日本語を話せるでしょ、という仲間意識が強い。
    アメリカでは自分のルーツを知ることで、この国の歴史を知るというのがゴールのようです。

    私も両親や祖父母のことを客観的に知ることで、地元の歴史とかを学んだけれど、それが自分の人生の選択肢に影響を及ぼすということはないし、やはりアイデンティティとは与えられるものではなくて自分で切り開いて得るものじゃないかと思っています。ま、これもあくまで私の個人的な意見ですけどね。

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