しつけか、虐待か
こんにちは、Erinaです。
北海道で小学2年生の男の子が山に置き去りにされ、6日後に無事に発見されたという事件。
このニュースはなんとアメリカでも話題になり、サンディエゴのローカルニュースでも取り上げられたり、発見のニュースはCNNのトップ記事にもなりました。
「しつけとして山に置き去りにする」
というのはやはりアメリカでも衝撃的だったようで、
「熊のいるかもしれない山に置き去りにするなんて・・・」
「どうか一刻も早く無事に見つかって欲しい」
なんて少年に同情的な見方が多数でした。
ちょうどその数日前に、シンシナティ動物園で、ゴリラが射殺された事件がありました。
4歳の男の子が、ゴリラの檻に侵入し、カラダの大きなゴリラにつかまれて引きずられて・・・という衝撃的な動画を見た方もいらっしゃるはずです。
この事件では、親の監視責任が追及されていて、
「ゴリラの事件に比べたら、(日本の事件は)まっとうだ」
「少なくとも(日本の親は)ゴリラのいる場所に子どもを入らせてはいない」
なんてちょっと皮肉のこもったコメントもついていました。
どこまでがしつけで、どこからが虐待か
というのは、アメリカでもかなり難しいトピックです。
フィジカルコンタクト(叩く、蹴る、噛むなど体が触れること)が絶対に「ノー」というのはやはり最近の兆候であり、私たちの世代やもっと上の世代になると、しつけとして「普通に親に殴られた」「ベルトで叩かれた」という声も聞くし、「ある程度は必要だった」という声もあります。
私も母にげんこつされたこともありますが、自分の子どもには手を上げません。
一つだけ、日本とアメリカで大きく違うなと感じることは、「声の大きさ」。
アメリカでは、しつけに限らず、大人が大きな声を出して怒鳴るということがありません。
まぁ物理的に広いから聞こえないというのもあるのかもしれませんが、日本で見るような、部下に怒鳴る、生徒に怒鳴る、子どもに怒鳴る、妻に怒鳴る、旦那に怒鳴る、ということがありません。
怒鳴り声が聞こえてきたら、近所の人などがすぐに通報し、かなりハイスピードでポリス(警察官)がやってきますので、コミュニケーションに怒鳴り声は含まれないわけです。
では、置き去りはどうでしょうか。
私は、今回の事件が起こった北海道の札幌出身です。
都会ではありますが、ちょっと町を離れたら、うっそうとした森が広がっているという光景を知っています。
車に乗っている間は気になりませんが、何の準備もなくそこから降りて、道路や公園などの人工のエリアを離れようという気持ちには全くなりません。熊もいるし、やはり自然への恐怖が強いからです。
「置き去り」、英語では”abandon”と言いますが、これを子どもの頃のトラウマとして抱えている人は多いです。
たとえば、迷子になったとまで行かなくても、たまたま親がどこかに(短期だったとしても)出かける瞬間を覚えているとか、そこで経験した恐怖心を断片的に抱えていて、「置いていかれるかもしれない」ということに強い拒絶反応を示したり。
大人になって、恋愛などで上手い別れ方をできない、なんて人はこういう傾向があるかもしれません。
大人側からしてみたら、「ちょっとの時間だし」「すぐそこだし」「おばあちゃんが見てくれてるし」と思うことでも、たかだか数年しか生きていない子どもにとっては、一時間が永遠に感じるわけです。
そんなわけで、今回の北海道の少年も、6日間という時間がきっと永遠のように感じただろうし、ニュースで進展を毎日追いかけていた私たちとは違って、きっと世界で一人ぼっちになったような孤独感や、もう誰も見つけてくれないかもしれないという無力感は、これから一生、この少年を変えてしまっただろうなという気がしています。
この記事でも書いたように、アメリカは子どもという存在が法律でかなり強く守られています。
同じ犯罪でも、大人が被害者なのと、子どもが被害者なのでは、だいぶ刑の重さも変わってきます。
これはやはり、「子ども」という社会的弱者を守ろうという姿勢がアメリカではとても強く、子供というのは社会全体で守られるべき存在だ、だから、たとえそれが親だったとしても、害を与えるのであれば、迷うことなく子どもは取り上げられるべきだ、と考えられています。
今回の北海道の事件も、もしこれがアメリカで起こっていたとしたら、この親は、この少年ともう一人の子どもに一生会うことはできなかったでしょう。
子ども達は保護され、養子に出され、別の大人(または母親だけ)の元で育てられます。
子ども達は様々なカウンセリングを受け、これまでに虐待の経験はなかったか、など隅々まで調べられるはずです。
学校機関などで子どもと働くときは、たとえボランティアだったとしても、指紋採取のプロセスを通らなくてはなりません。(親としてのボランティアは別です)
このプロセスは「バックグラウンドチェック」と言われ、指紋でこれまでの犯罪歴などを調べます。
こういう背景もあるので、アメリカでは親(や大人)はかなり神経質になるし、「親になるとはそういうことだ」「子どもと接するというとはそれだけ責任のあることだ」とその責任を重く受け止めるわけです。
そんなアメリカ社会で、上手にしつけをしながら、子どもを育てるには、どうしたら良いでしょうか?
私が感じる二つのことは
- コミュニケーションを勉強する
- 夫婦で参加する
です。
コミュニケーションを勉強するというのは、「コミュニケーション」というものを学問分野と捉えることで、「出来て当たり前」という先入観がなくなります。
私たちは誰でも、ある程度の会話をし、他人の話にある程度は耳を傾けます。だから、「伝わって当たり前」と思ってしまう。
だけど、そんなことないですよね。笑
私は日常的に使う言語が英語であるおかげで、日本語よりも言葉選びに時間をかけます。
「反射的に言葉が出てこない」というこれまでディスアドバンテージに思えたポイントが、「発言する前に一呼吸置ける」というアドバンテージになるわけです。
つまり、「こんなこと、言わなきゃ良かった」とか「もっと別の言い方があったな」という後悔が、外国語というハンディキャップのおかげで、激減したわけです。
このワンクッションが、子どもや旦那に「本当に伝えたいこと」を伝える役目になっています。
夫婦で参加するというのは、日本語でも「アメとムチ」、英語でも”Good Cop and Bad Cop”という言葉があるように、異なる役割の二人がとても良い効果をもたらすということです。
昔、ある人に教わったのが、「ウチは夫婦揃って、同じことで子どもを叱ったことがない」ということでした。
つまり、パパがビシッと言ったら、ママが同じことでくどくど言わない。
それは、両親が同じことで叱ると、子どもの逃げ道がなくなり、追い詰めてしまうから、ということでした。
だから、パパがビシッと言ったら、ママが、「そうだね、パパの言ってたことわかった?」と優しく聞くだけ。逆も然り。
これは、片方が無駄に熱くなっていたら、もう一方が、「ちょっとちょっと、落ち着いて」という冷却作用にもなるし、日ごろからの夫婦としてのチームプレーや、権力の均衡が必要になってきます。
「お前は黙ってろ!」なんて一方的に言う夫婦関係は、子ども抜きでも健康な結婚生活を送っているとは思えません。
今回の北海道の事件では、父親が「しつけとしてやった」と証言していましたが、私は瞬間的に、「母親はどこにいたの?」と思いました。
同じ車に乗っていたのなら、どうしてそこで「ちょっと待って、落ち着いて話そう」とならなかったのか?と。家族会議は、車を(安全な)路肩に止めてでもきちんとやるべきです。
私はシングルマザーの母親に育てられました。
一人親の難しさは、やはりここにあると思います。
しつけにもバランスが必要であり、「ちょっと行き過ぎてる」とか「あなたの言い分もわかるけどね」と中和してくれる存在がいるのといないのとでは、親の判断の重さも変わってきます。
そこにパートナーがいなければ(たとえ離婚していなくても)、やはり一人の親の意見がルールブックになってしまうわけで、バランスがとれているかどうかを確認することがなかなかできません。
たとえば、おじいちゃんやおばあちゃんなり、しつけに介入してくれる友人なりがいたら、そういうガス抜きをできる存在にもなるかもしれませんが、そうでなければやはり一人の親が全てのジャッジメントを下すことになります。つまり、警察と裁判官の一人二役をやるわけです。
上手に子育てしているシングルマザーやシングルファザーは、やはりそういう存在が近くにいたり、または自分のジャッジメントを冷静に客観的に計ることができて、それを振り返ることができる人が多いようです。
今回の北海道の件は、同じ親として、少年の親に同情する部分もあるけれど、しつけとしては、やはり少し度が過ぎたと思います。
私の子育ての方針は、「命に危険がなくて、法律を犯さず、他人を傷つけないなら、何でもやってよろしい」なので、それを親側にも応用すると、今回は命が危険にさらされたわけですから、アウトですね。
少年の親は、これから、少年とまっすぐに向き合い、たくさんハグをして、「愛してるよ」を怠らないでほしい。
決して自分の弱さを隠して、「俺は親だから」という地位にあぐらをかかないでほしいですね。
それにしても、この少年、タフだ。
だから、日ごろからもそうとう頑固な子だったんでしょう。笑
親はそれを愛してほしい。
育て甲斐がありますよ、そういう子は。
頑張った。
生きててくれてありがとう、と他人ながら思うのです。