アメリカでマイノリティとして生きるために

こんにちは、Erinaです。

 

アメリカ大統領選挙の結果を受けて、書き始めた関連記事も、とりあえず今回で最後にしたいと思います。(書くことが他にあれば、ですが・・・笑)

 

今回は、このアメリカで、マイノリティとして生きるための心構え、そして差別というものを目撃したら、そしてその対象になってしまったら、どう対応するべきかについて書いてみたいと思います。

 

 

私は、アメリカにいる以上、どこに行っても、何をしても、いつもマイノリティです。日本人であり、女性であり、英語は母国語ではありません。いくら努力をしても、それを完全に隠すことはできないし、それらの要素をこの国のマジョリティに覆すことは現在では無理です。

日本で生まれ育った私は、「自分が周りと違う」なんて感じたことがなかったし、そして「違う」というのはどういうことなのか、と意識しながら生きてくることがありませんでした。少なくとも、アメリカに来るまでは。

つまりは、マイノリティの気持ち、差別される側の気持ち、というのはわからなかった。

 

この記事でも書きましたが、アメリカに来て最初のうちは、マイノリティ・移民であることに劣等感を感じていたとしても、こうやって、「マイノリティだから理解し合える人たち」に出会い、それは自分の強みなのだ、と思えるようになったのです。

マイノリティの要素が何であれ、他人に対しての寛容 (tolerance) とか理解 (understanding) が深まったという意味で、この国での14年間は、私を強く、優しく、そして幅広い人間にしてくれたと思います。

 

 

私が通ったコミカレは、サンディエゴダウンタウンに位置し、もう想像もつかないようなダイバーシティ(多様性)に溢れていました。

一番最初に仲良くなった友達は、この記事でも書いたような学生たち。彼らのそれぞれの文化や食べ物、生き方や家族に触れ合うことができた私は、日本にいた頃とは全くの別世界にいるようでした。

 

コミカレのクラスルームに一歩足を踏み入れると、そこは国連の会議か、オリンピックの開会式か、と思うくらい、世界各国から様々な顔ぶれが。

印象的なのは、アフリカのイスラム教徒の若い女性たち。決して派手ではない、きれいな色のヒジャブで頭を隠し、焦げるように熱いサンディエゴの太陽の下でも、また別のきれいな色の長いローブを毎日着ていました。

そのヒジャブとローブの色合いは、日本の着物のような雰囲気を醸し出していて、そこにあるプライドや伝統と、彼女たちが抱える「解剖学」の真新しいテキストブックとのギャップに、私は「アメリカってすごいな」と思ったのでした。

だって、日本人女子留学生が当たり前のように毎日、着物を着て、”Astronomy”(天文学)なんて教科書を抱えているなんてこと、ありませんもんね。

 

そうやって、自分自身の信念を持ち続けながら、新しい世界(=アメリカのシステム)に入っていく。そのドアは、やる気がある人には(←ここ重要)いつでもオープンになっている。

それがアメリカにあるデモクラシーであり、自由であり、実力主義であり、この国に来て、この国で勉強ができて、本当によかったな、これこそがアメリカン・ドリームだな、と思ったのでした。

 

 

そして同時に、マイノリティ、マジョリティというのは、単なる数量的な表現でしかなく、コミュニティ内で、マイノリティは劣り、マジョリティは優る、という意味ではない、と考えるようになりました。

それは私自身が、「この国では、実力があれば、どこの誰だろうと関係ない」という経験をいくつもしたからです。

数学のクラスでトップになれることや、英作文のクラスでアメリカ人学生が必死でBをとっている時に自分がAをとれること、グループプロジェクトで欠かせない存在になることなど、そういう小さな積み重ねから始まり、大学卒業時にはアメリカ人学生よりも高給料で就職が決まったこと。

そこに行き着くまでに経験した、汗と涙と(とにかくたくさんの涙と)、眠れない夜、悔しい思いややるせない気持ちも全部ひっくるめて、「私がやってきたことは、間違ってなかった」と言えたのです。

 

LAXにスーツケース一つで到着した14年前には、想像もつかなかったところに今の自分はいる。

だけど、これは「誰かに与えられたもの」ではなく、「自分で勝ち取ったもの」と言える。そういう自負がある限り、私はこの国で生きていける。

もちろん、本当にたくさんの人のヘルプとサポートがそこにはあり、チャンスが何度もやってきました。決して自分一人で勝ち取ったとは思いません。私はそういう人々に感謝し、チャンスを逃さない、というのがキーだな、と常に思っています。

 

そしてもちろん、人に負けない!と言えるくらいの努力をする。もうこれは絶対条件。

ここでの努力とは、与えられた課題をこなす努力だけではありません。

自分の「恐怖」を乗り越える努力。

縮こまってる自分に、「やってやろうじゃないの!」と言って、奮い起つ努力。

 

だって与えられた課題なんて誰でもできるんです。

そんなところ、努力して当たり前。

みんなができないところで努力しないと、こんな競争率の高いレースになんて絶対に勝てない。

私はそうやって、常に自分の “Comfort zone” (居心地の良い場所=ぬるま湯)から自分を引っ張り出してきたし、それが許される人生に楽しみを見出しています。

 

 

それは例えば、ESLのクラスには日本人学生よりも韓国人学生がたくさんいて、休憩時間には韓国語が飛び交う。自分は韓国語がわからない。

そこで、みなさんなら、

  • 除外された気持ちになって悲しくなる
  • 韓国語で面白いことを言えるようになる

のどちらを選ぶでしょうか?

 

私は後者でした。

自分のわからない言葉を話す人がそこにいたら、彼らから学べば良い。

 

私は「ケンチャナヨ?(大丈夫ですか?)」だけを覚えました。笑

それで、彼らの韓国語の会話がだんだんシリアスになってきたら、もちろん会話内容はさっぱりわからないけど、絶妙なタイミングで「ケンチャナ?」とか言うと、「エリナって面白い!」と思ってもらえて、友達になれるわけです。

 

 

こうやって、個人レベルで差別を差別じゃなくする状況って、想像以上にたくさんあるんです。

「嫌だな」と感じる時に、「これは私にとってのLearning Opportunity なのだ」と思えるポジティブさというのは、この国でマイノリティとして生きる上では必要です。

 

 

こんな経験を踏まえて、アメリカでマイノリティとして生きるために自分でできること。

 

それは、

 

  1. 自分が「マイノリティである」と自覚する

 

私は日本人であり、女性であり、英語は第二言語であり、国際結婚であり・・・とその要素は数え上げたらきりがありません。でも、それらの要素が「自分を作っているのだ」と知る。

 

 

2. 自分のようなマイノリティが、コミュニティでどう見られているか研究する

 

これは自分にとって便利なリソース、つまり日本語で読めるものだけでは足りませんから、やはり英語の、「向こう側」にいる人間によって書かれた文章を読む必要があります。

自分とは逆側にいる人間、つまり、マジョリティの人たちが、自分のようなマイノリティをどう捉えているかを知らなくてはなりません。

 

これは私にとって、「アメリカ史を英語で勉強すること」でした。

今まで、アメリカで大学を卒業し、アメリカ企業で働き、アメリカ人と家庭を持ち、アメリカ市民になったとしても、どこかで「私はまだ外国人だな」という壁が取り払えなかったのです。

その原因は、私は「アメリカの歴史を知らないからだ」と気付いたのが、ごく最近のことでした。

初代ワシントン大統領、南北戦争のリンカーン大統領、ローズヴェルト大統領、キング牧師、マルコムX、太平洋戦争中の日系人キャンプ・・・名前だけなら聞いたことのある人はたくさんいるでしょうし、だいたいのことも知っているはずです。

しかし、「本当に知ってるの?」と聞かれたら、「彼らに対して、自分の意見を持つほどは知らないな・・・」と自信が持てないことに気付いたのです。

私は、「やはりこれは、自分で納得のいくまで勉強しない限り、真実に近づくことはできない。この国で生まれ育ち、歴史を目撃してきたアメリカ人たちを理解することはできない」と思うようになりました。この気持ちは自分の子供たちが、アメリカ史を勉強してくるようになって、なおさら強くなりましたね。

だから、「私も勉強しよう!」ってそれだけのことです。

 

こうやって、マイノリティという存在や、この国の成り立ち(つまりは歴史)を勉強し始めると、どうして、今日のアメリカ人たちが、こういうことに賛成し、こういうことに反対するのか?が見えるようになってきたし、同時に、自分が自分らしく生きるためには、何が必要か?が見えてきたのです。

 

 

3. マイノリティであることを恐れない

 

私は、ある「日本文化」を如実に表しているな〜と思うものが一つあります。

それは、日本で車を運転する際の、「若葉マーク」です。

あれは、「私は運転初心者なので、そのへん、よろしくね」っていう日本独特の「空気を読むシンボル」だと私はつくづく思います。

 

しかし、渡米当初、「アメリカには運転初心者マークってないの?」と在米歴の長い日本人に聞いたところ、「みんな同じ道路を運転するんだから、初心者もベテランもないよ。みんなフェアだ。」と言われ、「それってアメリカっぽいな〜」と思ったことを覚えています。

つまり、同じ試合に参加するのなら、初心者もベテランも関係ない。誰にでも公平にチャンスが与えられている分、誰も手加減はしないし、そこは自己責任ですよ、というのがアメリカであり、それこそがアメリカン・ドリームなのです。

だから、日本の若葉マークの気持ちで、アメリカにやってくると、「私、外国人だから、手加減してね。私から言わなくても、英語はゆっくりしゃべってね。」と思ってしまう。

でも、そんなことはほとんど起こりませんよね。笑

 

外国人という社会的なハンディキャップを持つ私たちは、アメリカに既存の水準を、下げてもらうことを期待するのではなく、こちらから、その水準を超えられるような努力をしなければならない

自分たちに都合の良いことが起こるのを待つのではなく、自分の欲しいものは取りに行く、という姿勢でなければ、マイノリティとして、いつまで経っても次のレベルにはいけない。

マイノリティを自覚することは、それを恐れることとは別なのだから、自分に自信を持って堂々と生きる。

私はそう思っています。

 

 

長くなりましたが、私の個人的な信条はここまで。

これを踏まえて、実際に目の前で起こっている差別や攻撃的言動にどんな対応をしたら良いか。

 

キーワードは、“Diffuse”。日本語では「分散する」という感じでしょうか。

 

何を分散させるかというと、差別や攻撃的言動には、怒り・不安・恐怖・悲しみ・嫉妬など、ネガティブな「感情」がつきものです。

それは自分では目に見えない、お腹の奥底でふつふつと湧き上がるものであり、「それは間違ってますよ〜」と理論で説き伏せることがとても難しいものです。

そういう感情は、その場に緊張感をもたらし、ピンと張り詰めた糸のようになってしまいます。

その緊張の糸を緩めることが “diffuse”です。

 

具体的には、

 

  • 相手に感謝する(のれんに腕押し)
  • ジョークにする(笑う門には福来る)
  • 無視する(知らぬが仏)

 

という3つがあります。かっこ内のことわざは、なんとなくそういうイメージで、ってことです。笑

 

 

相手に感謝する

たとえば、「アジア人の英語はわかりにくい」なんて誰かが言ったら、

“Oh, thank you for your advice. I’m working on my ‘th’ sound with my 3 year old daughter. I’d better practice more with her.”

(あら、アドバイスありがとう。そうなの、今、うちの3歳の娘と、”th”の発音練習してるのよ。でももうちょっと練習が必要みたいね〜。)

 

なんて答える。

これは、相手の発言にカチンときても、それをまずは一旦、受け止めなくてはなりません。上級編かな?短気じゃない方はできると思います。笑

 

 

ジョークにする

 

この記事でも書きましたが、物言いがすごくストレート(英語では”assertive”)なアメリカで、ジョークを身につける、というのはとても重要です。

 

たとえば、上の例で、「アジア人の英語はわかりにくい」と言われたら、ジョークでの切り返しは、

 

“Yeah, I’m practicing my ‘th’ sound with my daughter, but she is just 6 months old. So she is not much of the help.”

(そうなのよね、今、うちの娘とthの発音を練習してるんだけど、うちの娘、まだ6ヶ月なのよね〜。だからあまりヘルプになってなくて〜。笑)

 

って感じ。

特に若い時は、R指定系の切り返しも必要です。たとえば、「日本人の女の子は誰とでもべッドインするよね」なんて言われたら、

 

“Yeah, except somebody uncool like you. So you don’t have to worry.”

(あなたみたいにクールじゃない人以外ならね〜。だからあなたは心配しなくて大丈夫!)

 

なんていうと、周りが「うわぉ!」となりますね。

確かに、直接的な敵意を向けられた時に、ジョークなんて言えない!と思うかもしれません。これもかなり上級編の対応ですが、コメディなどを見て練習しましょう。

 

 

無視する

これは簡単。

敵意を向けられたら、とにかく無視。

無視して、誰かに電話をかけて、その人がいないように振る舞う。

無視して、周りの人とおしゃべりしだす。

あくまで平常心です。

心の中で、「あぁ、この人はきっとこの場所以外でも、残念な人生を送ってる人なんだな〜」と思い続けましょう。

 

攻撃する人間というのは、「自分の攻撃が効いてるぜ!」と感じることに快感を持ち、止めなくなるものですから、それが全く効果ゼロですよ、という対応をするのが良いそうです。

 

こんな記事を見つけました。

Bystander’s Guide to Standing Up Against Islamophobic Harrassment

イスラム教徒恐怖症への周りの人の対応、という感じでしょうか。

これは、自分ではなく、イスラム教徒への差別を目撃したら、攻撃者を無視して、差別されている対象者とおしゃべりしましょう、というもの。

やはり攻撃者に「あなたは間違ってる!」と立ち向かうのではなく、その場にできてしまった緊張感を解きほぐすことが目的のようです。

 

この「無視する」という流れで、「避ける」という予防があります。

やはり、デモのように緊張感が最大になっている場所には行かない。何かが起こりそうな場所には出向かない。たとえそれが、自分の支持するものであっても、私はわざわざ余計なトラブルや面倒が起こりそうな場所には行きません。

 

 

どうでしょうか?

 

この3つのどれも、決して簡単なことではないかもしれません。

しかし、偏見に立ち向かう、差別と向き合う、というのはそれだけの強さや勇気、そして知恵を必要とします。あのローザ・パークスだって、ハリエット・タブマンだって、エレノア・ローズヴェルトだって、みんなそういうものを兼ね備えた、あくまで普通の女性たちだった。

力で押されて、同じように、力で押し返してはいけません。それはスマートな人がすることではないからです。

 

 

そしてこの3つに共通するものは、結果として、攻撃者以外の周りの人と、「友達になる」ということ。

知らない他人と友達になれるスキルを身につけておくというのは、こういう攻撃者や差別から、自分の身を守ることになります。

それは、「周りはみんな敵」と思いながら外を歩くのか、「周りはみんな友達」と思いながら出かけるのかで、全く気持ちが変わってきますよね。

 

ただし、学校や職場など、ハラスメントや差別、いじめへのポリシーがきちんとある場合は、別です。その場合、「訴えたら、どうなるか?」というコンセクエンスを理解した上でなら、適切な行動をとって良いと思います。

 

 

以上、長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。

えりな流、アメリカでマイノリティとして生きる方法、いかがでしたでしょうか。

 

悦子さん、どうでしたか?笑

 

 

“アメリカでマイノリティとして生きるために” への6件の返信

  1. どこの国でも、マイノリティとして生きるのは覚悟がいりますよね。
    アメリカでも日本でもそれは同じだと思います。

    日本では私達がマジョリティなので、それに気づかないだけですし。

    差別は人間の心に根付くものなので、アメリカにしろ日本にしろ、解決が難しいですよね。
    国などが教育を通して、そういった感情を国民に与えている場合もあるでしょうし。
    もっとハッキリ言ってしまえば、それが国民をまとめるためのツールになっている。

    実は、金曜日に同じ会社の人間から「国から出て行け」とカフェテリアで言われました・・・

    詳細は私のブログ「マエマエのアメリカ バイリンガル育児」に書きましたが、悲しいけど、これが今のアメリカの現実です。

    みんなが他の国、民族に対するリスペクトを忘れないような社会にしたいですね。

    トランプの祖父にしろ、ジョンFケネディーの一家にしろ、元をただせば、みんな移民ですから。

  2. マエマエさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    そうですね、日本では私は差別やマイノリティの存在に気付かなかっただけで、自分にとっては当たり前の生活に対しても、色々なことを感じたり、乗り越えたりしながら生きていた人がたくさんいたのだと思います。
    私は、うちの子供達が、そういう無知・無理解な人間にならないように、将来的には自分の選択した外国で生活経験をしてほしい。それは有名大学に行くことや、一流企業に就職することなんかより、人としてずっと大事な経験のように思えるからです。
    そうやって、マイノリティの立場になってみたら、どんな他人であれ、心ない言葉が口から出ることはないはず。

    不合理で、不条理な攻撃をされたときにできること。
    それは、自分の中の「品格」を失わないこと。”Stay classy”と言われますが、相手の下品さに合わせず、自分は自分らしくありたいですね。

  3. えりなさん、
    大作ありがとうございます!!
    日常的に交流するようなシチュエーションでの、差別?仲間はずれ?というような状況と、そうではなく赤の他人からいきなり攻撃されるような状況、両方について書いてくださっていて、とても参考になりました。Facebookでも「子どもが学校で差別されたときにどうすればよいか、話をした」という内容の投稿をみかけたりして、心の準備は大事だな~と思います。危険な状況なのかどうかを見極める能力や、他人に助けを求める勇気なども、実際に体験しなければ培われない部分もあるでしょうね。多くの日本人の方に読んでいただきたいです。

  4. 悦子さん、ありがとうございます。

    やはり自分がマジョリティとして生まれ育った場所の外では、色々なアンテナを張って、これまでに不要だった感覚を研ぎ澄まさなければなりませんね。
    それが危機感とか緊張感というものを察知する能力なのかもしれません。
    地元の人には当たり前のことも、フォーリナーとして新しく学ばなければならないことってたくさんあるし、それをなるべくポジティブに捉えて、ポジティブなエネルギーを還元していきたいな、と私はいつも思っています。

  5. うーん、読みがいのあるポジティブな投稿素晴らしい!いやーマジョリティだった札幌時代は楽だったな〜随分余計な苦労をしょいこんじゃったわよwって思うけど明るくキラキラ強く生きて行くのが一番ですね!苦労して成功したマイノリティをaffirmative actionのせいだわって努力もせずにひがむ人たちもいるけど、そんなネガティヴモードには太陽パワーではねのけるのが一番ですねっ

  6. りょうこさん、毎度ありがとうございます。

    >随分余計な苦労をしょいこんじゃったわよwって思うけど

    りょうこさんも思いますか?!私もいつも思ってます。笑
    自分で面倒臭い人間だなぁ・・・と。でもそれが何よりの生きがいなんですけどね。

    明るくキラキラ強く生きる!まさに!!道産子スピリッツ!道産子バンザイ!!笑
    あの厳しい自然と冬の中で、ふさぎこんでいたら生きていけないですから、やっぱり道産子って明るい人が多いんじゃないかなぁ。
    そういう(はた迷惑な)エネルギーを一緒に降り注ぎ続けましょう。笑

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