世界は、こうやってつながっている
こんにちは、Erinaです。
昔、あるハリウッド俳優が、「友達の友達の友達の友達の友達の友達と6段階まで行き着いたら、世界中の人間全てとつながることになる」と言っていました。
どういうことかというと、「友達」という1段階めに属する人は、自分が「直接的に知っている人」。
「友達の友達」という2段階めに属する人は、自分の「友達」を間において間接的につながっている人。
「友達の友達の友達」は3段階め・・・と6段階めまでさかのぼれば、世界人口を網羅できる、というのです。
まぁ確かに、数学的に考えても、いくつかの条件を満たせばこれは証明できるでしょう。ここではその証明はしませんが、詳しく知りたい人はこちらで。
ここで私が言いたいのはつまり、世界の裏側にいる、自分とは全く関係ないように見える人間でも、自分とは何かしらのつながりがあり、大なり小なり、お互いに影響を与え合っている、ということ。
たとえば、テロ事件とか、経済的なことまでは行かなくても、誰かの何かしらの決断が、巡り巡って、自分の周りに影響を与え、結果として自分自身の決断にも影響を与える。まるでドミノ倒しのように。
そして同時に、自分の一挙手一投足も、何かしらの影響を、世界に与えるのだろうな、と私は考えています。
もちろんこれを証明する術はありませんが、こう考えると、世界は何かしらの形でつながっていて、無人島で一人きりで過ごさない限り、毎日、誰かの言動に影響されあいながら生きるのが人間なのだ、と思うのです。
これをことわざにするなら、
日本語なら、「情けは人のためならず」
英語なら、What goes around comes around
両方とも、良いことも悪いことも、他人にしたことは自分に返ってくるよ、という意味です。
先日、うちの旦那と子供達が、とても不思議な体験をしました。
私がいなかったある夜、3人で近所のマクドナルドに行きました。
食事が終わって、帰りにデザートとしてミルクシェーキを買おうとしたところ、その店のミルクシェーキの機械が壊れていたそうで、買えなかったそうなのです。
ガッカリした子供達を見て、うちの旦那は、近くのJack in the box(別のハンバーガー屋)に行くことにしました。
そこでドライブスルーに入り、ミルクシェーキを3つオーダーした旦那。
窓口でお金を払おうとしたところ、店員にこう言われたそうなのです。
「あなたの前の車に乗っていたお客さんが、もう支払いを済ませてしまいましたよ。」
一瞬、何が起こったのかわからなかった旦那。
「どういうこと?」
とクエスチョンマークが頭の中に浮かんだことでしょう。
前のお客さんは、白いSUVに乗っていた女性だったようですが(記憶が曖昧)、旦那には、誰かにミルクシェーキを買ってもらうような心当たりは全くなかったそうです。
「そうか」
うちの旦那は、あることに気づきました。
“Random act of kindness”
「ランダムな親切行為」とは、相手を特定せずに、自分以外の誰かのために、親切な行いをすること。
小さいところで言えば、次の人のためにドアを押さえてあげることだとか、両手がふさがっている人のためにドアを開けてあげることだとか、荷物を持ってあげることだとか、そういうことです。
そういう感覚が広がっていくと、誰かのハンバーガーショップでの精算をしよう、という気持ちになる人が、この世の中にはいて、たまたま、うちの旦那と子供達がその対象になった、ということだったのです。
ミルクシェーキの支払いをした女性にとっては、「後ろの車のお客さん」が何をどれだけ買うか、わかりません。もしかしたらハンバーガーを100個買っていたかもしれない。
だけど、「何をどれだけ買うか」というのは彼女には問題ではなかった。「知らない誰かのために、ここでお金を出そう」という気持ちが、そういう行動につながったのでしょう。
この話を聞いて、私はまず、「アメリカってやっぱり良いな」と思いました。
この国では、こういうとても原始的で有機的な「人間のつながり」がまだまだ存在しています。
“Hello.”と笑顔で他人に挨拶することや、困っている人を見たら「大丈夫?」と声をかけること。
そうやって、他人を自分の世界に含める (including others to my life) という作業が、日常的に多くの人の中で行われていて、「自分一人で生きているんじゃないんだな」と思わせてくれるのです。特に、子供達が小さかった頃は、それがどれだけ心の支えになったことか。
ちょっと前に、あるニュースが話題になりました。
2歳になったばかりの娘と飛行機に乗ろうとしていたある父親。彼は、自分の分のチケットしか持っていませんでした。なぜなら、彼がチケットを買った時、娘はまだ1歳だったので、チケットを買っていなかったのです。
搭乗カウンターで、娘のチケットが買えなくて困っていた彼のところに、ある女性が近づいてきました。
彼女は、この父親と言葉を交わした後、搭乗カウンターで、「私が娘さんのチケットを買います。」と言いました。
スタッフは言いました。
「チケットはいくらかご存知ですか?」
「$700いくらでしょう?」
「$749です。」
「構いません。」
そう言って、彼女は自分のクレジットカードで支払いをし、女の子のチケットを買ったのです。
父親は、女性の名前と連絡先を聞き出して、お金を返そうとしたそうですが、女性は「気にしないで」と言うだけでした。
う〜ん・・・。
どうでしょうか?
こういう人(見知らぬ困っている誰かのために750ドル払える人)が、この国には存在していて、周りの人がそれをきちんと認識し、感謝し、自分も親切にしよう!と常にリマインドしている。
それが私がアメリカという国を好きな理由の一つでもあります。
うちの1年生の娘は、学校でも、この”Random act of kindness”について教わっているそうです。
教室には、”Random act of kindness box” という箱があって、その中には様々な「親切」を書いたカード(「友達を助けよう」とか、「ゴミを拾おう」とか)が入っているそう。朝、先生がそこからくじのように一枚引き、子供達はその「親切」を意識してその一日を過ごすそうなのです。
これは、”Learning about good citizenship” というものですね。自分はそのコミュニティの一員(市民)であることを自覚し、その責任を身につける、という練習でしょうか。道徳教育の基本ですね。
そうか、こういうことを1年生から教わってるのか、というカルチャーショックと、私も彼女たちのお手本になれる人間にならないとな、と襟を正す思いでした。
このミルクシェーキの件があった日、最後は、
「自分たちも、できるところから、人に親切にしようね。誰かにやってもらったことを忘れずに、let’s pay it forward.」
ということを子供達に教えることができました。
“Pay it forward” はちょっと前に映画にもなりましたが、”Pay back”(何かしてくれた人に直接返す)のではなく、別の人に、つまり、forward(前方に)投げかけていこう、という意味です。
そうやって、毎日の小さな親切が、次へ、次へ、とつながって、やがて大きなものになれば、世界は優しくて、温かいものになるのじゃないかなと私は思うし、同様に、怒りとか悲しみのようなネガティブなものはpass on(受け渡す)したくないな、と思うのです。
何かしてもらったことで、感謝の気持ちを持つことはもちろんですが、日本人は、「してもらったことに対してのお返し」(つまり後ろ)に意識を向けがちです。しかし、お返しに頭を悩ませてしまっては、本末転倒であり、親切にしてくれた人の好意を素直に受け取ることも必要なのでは?と思うのです。
それよりも、今の自分にできる親切や手助けをすることで、視線を前に向けよう、という気持ちも大事ですね。
どうでしょうか。
いつも楽しく読ませていただいています。
私もアメリカにいるのですが、なぜ、寄付を普通の方がしようと思うのか。
日本では、あまり評価されないことに、行動するってことがなくて。
宗教なのかな?教育なのかな?なんて考えていましたが。
寄付とは、別の話としても、コミュニティーの一人として、全体を考えていたり。小さいころからの教えなのか、と感じるの感慨ぶかいです。
それにしても、シェーキの話、いいですね!
自分が、もしも、後ろの人の分まで払う立場になったとしても、なんだか、どんな反応してるだろう?なんて、ワクワクしてしまいます。
みつさん、こんにちは!
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
そうですね、私も寄付の習慣はキリスト教かな?とずっと思っていたのですが、そういうことでもないようです。
こうやって子供の頃から身に付いているものなのか、とちょっと衝撃でした。
>どんな反応してるだろう?なんて、ワクワクしてしまいます。
確かにそうですね!
シェーキの女性もそうやって楽しんでいてくれたら嬉しいかも。