バイリンガル教育で考えたいこと

こんにちは、Erinaです。

 

この21世紀、子供達を様々な言語や文化に触れさせることは、それほど難しいことではありません。

しかしそこで、親として、教師として考えなくてはならないのは、「何をどれだけ教えるか?」ということ。

 

例えば、私の周りに多い日英バイリンガル家庭。

 

この記事でも書きましたが、日本人家族がアメリカで暮らしていく上で直面する言葉の問題は、子供がどの年齢になっても起こるようで、子供がおしゃべりをしだす幼児期を経て、学童期に入った時に、再び、親たちの間でリアリティチェックをする機会が増えるようです。

 

そこで今回は、小学校に上がる学童期から、その後(思春期〜自立期)へのビジョンを含めたバイリンガル教育というものについて書いてみたいと思います。

 

まず、とりあえずたくさんその言語に触れさせる(いわゆる「量」)の幼児期を乗り越えた後は、ただ単純に「日本語を教える」とか「英語を教える」というのではなく、何をどれだけ、そしてどんな目的で教えるのか?という「質」を踏まえた長期的なビジョンが必要になるようです。

 

たとえば・・・

  • 目的:祖父母との会話、帰国時の編入、大学進学、就職・・・
  • 何:英語、日本語、日本文化、アメリカ文化・・・
  • どれだけ:会話レベル、初等教育レベル、高等教育レベル、就職レベル・・・

 

など、一口に「バイリンガル」と言っても、目的が変われば、何をどれだけ教えるかという心構えや、計画も変わってきます。

 

「日本人だから日本語を話す」という表面的な能力ではなく、日本語という一つの言語を駆使して、何をさせたいのか、何をしたいのか、という親にとって意識の切り替えが必要になるのが、この学童期。

 

なぜかというと、このブログでも書いてきましたが、言葉というのは、目的ではなく「道具」だからです。

 

「日本人だから日本語を話す」というのは、日本語を目的と捉えた見方ですが、実際、言葉というのは、何かを達成するためのツールであり、目的ではありません。

 

たとえネイティブだって、「完璧」という人はいません。

そうですよね?何十年も使ってきた自分の日本語、「完璧」と言えますか?私は言えません。読めない漢字もごまんとあるし、間違って使ってしまう言葉もあるし、敬語もままならないし・・・。

 

つまり、ゴール自体が存在しない言語というものが「目的」になってしまうと、絶対にたどり着かないゴールを追ってマラソンをしているようなもので、親も子も疲れ果ててしまう。

 

だから、他に目的が必要になるのです。

 

たとえば、「日本のおじいちゃんおばあちゃんと会話できること」が目的であれば、小学校入学〜低学年の日本語で十分かもしれない。

「帰国して日本の中学・高校に編入する」が目的であれば、やはり日本語だけでなく、日本の学力も必要になってくる。

日本の大学に行くなら大学入試レベル、日本で就職するならビジネス日本語・・・と、目的によって内容もコミットメントも変わってきます。

 

そして、現役高校生のAkariちゃんがこの記事でも書いてくれたように、「言語」というものにはコミュニケーションツール以上の機能があります。

それは、「自我」を形成するために欠かせない、自己表現ツールという機能です。

特に子供が思春期に入り、自分という存在を定義したり、自分の意思や情緒を形にする上で、欠かせないのが「言葉」。

 

しかし、

 

自分を定義したい!

自分の情緒を形にしたい!

 

という10代特有の欲求に、言葉のボキャブラリーがキャッチアップできないために起こるのが、反抗期だったり思春期だと私は思っています。つまり、急激に起こる情緒(内面)の成長に、言葉の成長が追いついていかない。

 

イメージはこんな感じ・・・

 

だから、そのイライラを「むかつく!」とか「ウザい!」という便利な言葉でしか表現できなくて、親は、「なんなの、その言葉遣い!」と喧嘩になる。

私たち大人のように、ボキャブラリーが足りていれば、自分のストレスの原因を言葉を使って分析し、解決策を見つけたり、納得できるのですが、それができない子供は、かんしゃくを起こしたり、反抗期になったりするわけです。

 

この時期というのは、話す言語が一つだろうと、二つだろうと、三つだろうと、人間にやってくるものであり、バイリンガル環境で育っていなくても直面する成長過程です。

 

しかし、やはりここで考えたいのは、バイリンガル環境で育った子供が持つハンディキャップです。

前述の記事でも書いたように、バイリンガルではなく、「セミリンガル」という用語が使われるようになったのは、やはり、人間の脳というのは容量が決まっていて、複数言語を使って生活する場合、その容量を分けることになる、という(つまりは「量的」ではなく「質的」な)考えが広まっているからだと考えられます。

 

それはどういうことかというと、「お弁当箱」を想像してください。

 

お弁当箱って容量が決まってますよね。

 

そこに、昨日の残りのカレーライスと、今朝作ったオムライスを両方とも食べたい場合、お弁当箱を半分に仕切らなくてはならず、容量も半分ずつしか入りません。

 

そこでもし自分の兄が、「いや、僕の弁当はオムライスだけで良い」と言えば、兄は、お昼にオムライスを100%楽しめる。もしオムライスがチキンライスだったとして、兄のお弁当箱にはチキンが多く入る確率も増えるわけです。

カレーに入ったジャガイモが好きだとしても、スペースが足りないからジャガイモは一切れしか入らないかもしれない。

「自分はカレーとオムライスのどっちとも100%食べたいから、お弁当二つ作って!」とはなりませんよね?

つまり、「カレーライスとオムライスの二種類」という量的な考えではなく、「それぞれの中身はどうなっているか」という質的な考えですね。

 

人間の脳も同じで、二言語を使って生活しているからといって、脳が二つになるわけではなく、一つの脳で、日英の配分率を変えながら子供達は成長していると考えられます。

つまり、幼児時代は日:英=9:1だったけれど、小学校に上がった途端に5:5になり、徐々に日英の割合が逆転し、中高になれば英語メインになるのはそのせいです。

そこで50-50で二種類楽しむか、二者択一するのか、それとも割合を変えてキープするのか、という判断や親子間のコミュニケーションは必要になってくるでしょうし、また、一言語で育っている他の子供達と、彼らは勝負しなくてはならないという現実も考慮しなくてはなりません。

ただでさえ広がっていく、自分の内面と言語力のギャップなのに、その言語をさらに分けてしまったら、内面の成長に追いつくことがなかなか難しい。

 

 

こうやって、自分の子供たちの成長を、「人間としての成長」として捉えた時、彼らに何が必要なのかが見えてくるだろうし、同時に、子供が直面しているプレッシャーや、成長過程において避けられないフラストレーションも視界に入るのではないでしょうか。

やはり、バイリンガル環境で育つ子供たちの悩みというのは、そもそも言葉にされない部分も多く、一言語のみで育ってきた親からは見えないことが多いようです。

 

この21世紀、私は「外国語を話せる」というのは素晴らしいスキルだと思います。

一言語よりは二言語、二言語よりは三言語知っていたほうが有利だと思います。

 

だけど、「子供の成長」という要因がそこに入ってきた場合、話せる言語数の前に、人間としての意思や情緒の成長という意味では、親というのは何よりも大きな存在であることは事実であり、その責任と影響を、日々チェックするのが、21世紀に子育てをする私たち親の使命なのではないかな、と思うのです。

 

そういう意味で、東洋経済オンラインのこの記事には同意せざるを得ませんでした。

私は、英語で喧嘩できます。笑

たいていは勝つ自信もあります。爆笑 (特にしたくはないけど・・・)

 

 

 

 

どうでしょうか。

 

まだ読んでない方は、こちらの「使わない言語は忘れる」も読んでみてください。

 

 

“バイリンガル教育で考えたいこと” への9件の返信

  1. Erina さん、初めてコメントさせて頂きます。

    私の娘は6歳で現地の学校の1年生に上がりました。8月後半の誕生日なので、クラスでも一番年下です。5歳の頃から日本語土曜学校に通っているのですが、9月に入って現地校の方も土曜学校の方も行くのに抵抗があるのか、朝からぐずる事が多くなってきました。今までは楽しそうに通っていたので、このまま頑張らせようと思っていたのですが、最近は平仮名の宿題やろうと言っても机に伏し、やる気がないようです。このまま続けさせた方が良いのか、自分でやりたいと行く気持ちが出るまで待つのが良いのか迷っている時にErinさんのブログにたどり着きました。私自身アメリカでの生活の方が日本で育った時間より長くなってしまったので、英語の方が話しやすいと思う日々です。それなのに、アメリカで生まれ育って、日本に帰る予定は全然ないのに、土曜日まで学校に行かせるのはどうなのか。。。今しかできない事を、本人が楽しいと心から思える事をやらせてあげた方が良いのではと思ってきています。その中で自分から日本語学びたいと思った時に勉強した方が効率も良いのかと。私の周りにもたくさんの日本人お母さんたちがお子さんたちを土曜学校に連れて行っている中で、私もその波に流されていただけなのかなと、このブログを読ませていただいて思いました。

    長くなってしまいましたが、Erinさんのサイトに出会えて、他にも私と同じような悩みを持っている海外で暮らして居る日本人お母さん方が居る言う事に励まされました。ありがとうございます!

  2. ひろこさん、初めまして。
    コメントいただき、ありがとうございます。

    そうですね、やはり言語習得というのは、個人で異なるものだし、学年が上がるにつれて、右へならえでは続かなくなることも増えてくるでしょうね。
    そこでやはり、親が今の自分たちに何が必要なのかを見極めることは大事だと思います。私は日本語を教えることをやめましたが、それで、将来的に、「どうして教えてくれなかったの?」って言われるかもしれないし、逆に、「別に教えてくれなくて良かったよ」って言われるかもしれない。正しい答えが何なのかなんて、わかりませんよね。
    だからこそ、今の自分たちにフォーカスして、将来、振り返ってみたときに、「あぁ、やっぱりあのときにああして良かったんだな」って考えるしかないと思います。うちも日本語を教えるチョイスがあったかもしれないけど、でも教えなかったからこそ出来上がった今の我が家に私は100%満足しているし、これで良かったんだな、と思えます。
    ひろこさんファミリーが納得出来る決断に至りますように。

  3. Erina様

    はじめまして。ベルギーで緩く日本語をさせているHUと申します。
    記事、拝読させていただきました。

    国際結婚家庭の場合、子供の日本語継承は簡単に語れない問題ですね。周りからの圧力のようなものもありますし。
    私は子供の日本語教育は「日本人親が楽をしたい」というのが本質にあるのではないかと思っています。「あなたのために」ではなく。また、ある女性は配偶者に先立たれた後、現地でずっと孤独に現地語を話すのは辛いから子供に日本語をさせていると告白していました。結構、切実なものもあるのだなと思った次第です。

    かく言う私は、子供とは日本語で話をしているのでしっかり楽をさせてもらっていますが、日本語をさせなかった家庭の判断は尊重されるべきだとも思います。

    アメリカからの興味深い記事、今後も期待しております。

  4. HUさん、こんにちは!
    ベルギーからコメントありがとうございます。

    難しいですよね。
    言語のニーズは家庭によって異なるし、やはり「こうじゃなきゃいけない」をいかに捨てられるか、自分自身と向き合えるか、だと思います。
    親が周りと比べるがために、苦労している子供達はたくさんいますが、それがどう現れるかというのもやはりその親子次第です。
    子供の幸せは必ずしも親の幸せではないという現実と、自分自身が育った環境といかにかけ離れているかを自覚する必要があると思うし、そして色々な選択は最後は自分でしたのだというリマインダーも必要ですね。
    選択肢がたくさんあることはラッキーだけれど、やはりそれなりに自分で受け止めないといけないことは多いですね。
    海外生活、悩むことも多いけれど、幸せも多いです。頑張りましょうね!

  5. Erinaさん
    こんにちは。ニュージーランドで日本人夫婦で来ています。
    まだ私たちに子供はいませんが、近所の日本人友達に頼まれてボランティアで小学生低学年の子たちに日本語を教えています。
    やはり親子だと衝突や甘えが避けられないようで、第三者に教えてほしいのだそうです。その中で考えさせられるものがあり、調べるうちこの記事にたどり着きました。

    正直その子供たちにはほとんどやる気がなく、あまり教えがいはないです。教えたことも次の時には忘れているし…。やる気のない子に強制的に教える必要性があるのかな、英語圏のこの自由の国で何のために、と思うことが多いです。私たち夫婦も、日本の社会制度や教育制度、労働環境が嫌でこの国にいるので、自分の子供ができた時には日本語は教えなくていいんじゃないかと考えていました。今時日本に旅行に行ったって、主要都市なら全部英語でいろいろ記してあるし。

    しかし、その子のお父さんは子供のころにこちらに来た日本人なのですが、自分がほぼ日本語の読み書きができず苦労しているので、どうしても子供たちにそれが出来てほしいようなんです。そういう方がいると、やはり説得力があって、それには協力してあげたいし、自分も大変だけど、将来はこの人たちのように、子供に嫌われても頑張ったほうがいいのかなと考えるときがあります。
    特に私たち夫婦は日常会話が日本語(しかも地方出身で訛っている…)なので、教えないと子供たちに疎外感を与えることもあるのかなとも思ったり。

    まだ子供もいないし、とらぬ狸の皮算用なのですが、数年後には直面するであろう問題なので、いろいろな記事をあさっていました。

    でも、全く教えないことを選択した人がいること、そしてそれが良い方向に働くこともあること、子供を一人の人間として成長させるという子育ての本質を見失わないことが大切なんだとこの記事で実感できました。

    参考にさせていただきました。ありがとうございました。

  6. Pさん、こんにちは!コメントをいただきありがとうございます。
    返事が遅くなって大変申し訳ありません。

    英語みたいにパワフルな言語は学習意義もかなり明確でモチベーションも上がりますが、日本語みたいにどうもマイナーで日本国内でしか使われていないとなると、子供が興味を持つには何かしらのきっかけが必要でしょうね。
    漫画やアニメはそんな武器の一つだと思い、私が日本語塾で働いていた時は、漫画の第1巻だけを買い揃えて置いておきました。
    スラムダンク、ドラえもん、あさりちゃん、のだめなど、わかりやすい作品の1巻だけです。
    子供が興味を持ってもっと読みたくなったら、親に頼んで、というスタンスです。笑
    日本語を教えるかどうかという決断は各家庭によって異なるし、その理由も様々ですね。子供と向き合い、親子間の理解が深まれば、何かしらの解決策が生まれるかなと思っています。
    頑張ってください!

  7. こんにちは!米国内の日系企業で働いていてティーンの母です。子供たちは家ではほぼ英語だけで、米人の先生が教える日本語クラスを高校で選択して、ひらがな、カタカナから小2レベルの漢字も習っています。私自身は日本で生まれ育ったので、自分が日本の学校で英語を習っていた逆バージョンですね。Erinaさんの「お弁当箱」に入らない、ってよく分かります!(英語レベルはまだまだですが)自分自身バイリンガルで得したか?って言われると、仕事が赴任者と米人間のサポート係なので「GOFER」だよなぁってむなしくなることも時々あります。だからあまり娘たちの日本語教育も積極的ではなく趣味程度でいいかなと考えてしまうのかもしれません。

  8. MNTさん、こんにちは!
    コメントありがとうございます。
    これからは多言語話者の存在ってどんどん当たり前になっていくだろうし、その中でどれを完璧に使いこなせるか?っていうのも曖昧になっていくと思うんですよね。
    日本で生活するには日本語は必須だけれど、そういう国がどんどん減っていって、言語ちゃんぽんの世界になっていくんじゃないかなと思ってます。

  9. 返信ありがとうございます! 米国内では多言語者、増えているようですね。
    逆に日本から海外への留学生の数は90年代半ばがピーク、減り続けているそうで、パスポートそのものを取らない若い人も増えているとか。これは経済的な理由も大きいのでしょう。保守化が進んでいるように感じます。

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