数学が本当に教えてくれたもの

こんにちは、Erinaです。

 

今日は、一人の数学好きな人間として、数学が私に教えてくれたものについて書いたみたいと思います。

 

私は、数学が嫌いだった時(についてはこの記事で)、「数学」とは科目の一つでしかなく、その中でも数字を扱う学問、と思っていました。

公式とか、なんとか理論とか、暗記することはやたらとたくさんあるし、教科書なんて自分で読んだこともなかったけれど、やり方さえわかって問題が解ければそれが「数学が得意」という意味だと思っていました。

 

私が大学で数学を勉強して、社会に出て、この世界において「数学」がどういう位置にあるのかを知った時、やはりそれはものすごくパワフルな道具であることを知ったのと同時に、数学はただ単に便利な理系ツールではない、と考えるようになりました。

 

それは特に現在、数学を教えるようになって、「相手」がいる仕事をすることになってから、なおさら感じています。

 

今日は、そういう視点での「数学」と、そして数学が私に、本当の意味で教えてくれたもの(私が数学を好きな本当の理由)について、書いてみたいと思います。

 

日本人の数学者に、岡潔先生という数学者がいらっしゃいました。

私が今読んでいる彼の本「春宵十話」で書いていますが、彼は数学には「情緒」というものが必須だという考えを持って、数学と向き合っていたようです。

 

この「情緒」。

 

数学とはかけ離れた場所にあると感じた方も多いでしょう。

 

この「情緒」という言葉(日本語)ですが、和英辞典などで調べてみると、”emotion” となるようです。確かに、「情緒豊か」というと、感情が豊かな、という人間を想像するかもしれません。

 

しかし、私がこの岡先生のいうところの「情緒」と「数学」の関係を考えた時、私にとっての情緒の英訳は、“Humanity” (ヒューマニティ)でした。

“Humanity” は、人間らしさとか、人間らしくあること、人間であることっていう感じでしょうか。

つまり、人間が人間であること。

人間であることの証明。

 

それは、ロボットやAI(人工知能)には感じられないものであり、私たち人間が、言葉にならない「あぁ、良いなぁ」と何かに思いを馳せることです。

たとえば、秋の月夜に、「あぁ、この景色は情緒があるね」なんて言いますが、その景色自体には何の感情もありません。こちら(人間)が、その景色に、人間にしか感じられないもの(=ヒューマニティ)を感じて、「良いな」と思えるわけです。

 

数学には、そういう「人間らしさ」を追究するという役割があり、私は数学を勉強している時、ものすごく「自分は人間だなぁ」と感じるのです。

 

どうしてでしょうか。

 

それはおそらく、数学というのは、「他人の頭の中を覗く学問」だからです。

 

目の前の問題と向き合ったり、教科書を読んでいる時、「これはどうしてこういう問題になったんだろう?」とか、「この人は、何を思って、こんな理論にたどり着いたんだろう?」と考えます。

つまり、今、目の前にいない人(問題作成者だったり、過去の数学者だったり)の頭の中を覗くことで、その人たちが何を考えていたかを見極めることになるのです。

 

そもそも「思考」とか「アイディア」というのは、無形 (intangible) のものです。数学はそういう無形のものを取り扱う学問であり、人間らしい想像力だとか、論理力が必要になります。

目の前にある有形 (tangible) の何かを数える作業(つまりロボットやコンピュータができる作業)とは異なるわけです。

 

私はこれまで、数学ってなんて無機質で、人間のにおいも形も温かみもない、なんてつまらない勉強なんだろう、と思っていました。だけど、こんなに人間くさい学問ってないなぁ!と気付いた時、私は数学の世界にどっぷりとはまることになりました。

「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉があるけれど、やはり私たち人間を、他の生物やロボットと区別するには、「考える」という行動が必要だと思うのです。

 

前述の岡先生が、こんなことを言ったそうです。

 

「数学は、道端に咲く花に気づく情緒を養うために必要な教育だ」

 

私はこの言葉にうーん、素晴らしい、と思わざるをえませんでした。

なんて端的で、だけれど的を得ているんだろう、と。

 

数学と道端の花なんて、一見したら、程遠い世界にあるもの同士だと思いませんか?

 

でも、違うんです。

 

そうやって、数学を通して、「他人の頭の中を覗く練習」をしていると、他人の感性によって、自分の感性が磨かれる。そうすると、「あぁ、人間ってこういうものに『良いな』と感じるんだよね」と道端の花の存在に気づくことができる。

私は数学を勉強するようになって、純文学や歴史に、再び興味を持つことになりました。それは、他の人間と共鳴しあうことの大切さや、それに快感を覚えたからであり、この世界にある無数の思考(アイディア)に価値を見出したからだと思います。

 

最後に、もう一つ、私の好きな言葉を紹介します。

 

黒柳徹子さんの有名な「窓ぎわのトットちゃん」からの抜粋で、トモエ学園校長の小林宗作先生の言葉です。

 

「文字と言葉に頼りすぎた現代の教育は、子どもたちに、自然を心で見、神のささやきを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか?

古池や 蛙とびこむ 水の音・・・池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、芭蕉のみでは、なかったろうに。湯気たぎる鉄瓶を見た者、りんごを落ちるのを見た者は、古今東西において、ワット一人、ニュートン一人というわけで、あるまいに。

世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず・・・の類である。」

 

子どもに何を教え、何を伝えるか、とても考えさせられる言葉でした。

 

岡先生も、小林先生も、「ヒューマニティ」または「情緒」というものに価値を見出し、人間を育てる上で、教育や学問にはそういう要素が欠けてはいけない、ということを教えてくれました。

 

どうでしょうか。

 

みなさんは、人間らしく、ありますか?

 

 

 

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