子どもと携帯電話について

こんにちは、Erinaです。

 

「子供にいつ携帯電話を与えるか?」

 

というのは、現代の親にとって避けては通れない問題です。

 

我が家も上の子供が11歳になり、今年の秋からは中学生になります。同級生に限らず、周りの子供達でも携帯電話を持ち始める子供がちらほらと現れて、新しい問題に頭を悩ませる時期になりました。

早い子供では小学3年生頃から持ち始め、私が教える高校フレッシュマンのクラス(日本の中3)では全員が携帯電話を持っています。

 

「いつがベストタイミングか」というのはもちろん家庭によって異なると思いますが、今日は、子供に携帯電話を与えることによって起こること、そして親として持っていたい心構えについて書いてみたいと思います。

 

まず結論から言うと、我が家は子供達に携帯を与える予定は当分ありません。テレビゲームやコンピューターの導入もかなり遅いローテク家庭で、「いつとは言わないけど、携帯を持つのはクラスで最後と思った方が良い」とうちの子供達に言っています。

現在のうちの子供達にとって、携帯電話の必要性はものすごく低い、というのが私たち夫婦の見解です。

理系でIT系の仕事もしてきた私たち夫婦が、このような見解を持つのは不思議に思われるかもしれませんが、それはつまり、人間としての生活に、テクノロジーがどんな影響を及ぼすか(または及ぼさないか)を知っているからです。つまり、携帯電話が及ぼすであろう悪影響とベネフィットを天秤にかけた時、”It’s not worth it.”(その価値はない)と思った、というのが結論です。

 

では、何をもってそういう結論に至ったのかを書いてみます。

 

アメリカの中高生達を見ていると、携帯電話への依存度の高さに驚きます。

彼らの携帯電話はまさに「体の一部」になっていて、肌身離さず持ち歩き、数分でも画面から目を離すことにものすごい拒絶感を感じる。私は専門家ではないけれども、それは中毒患者達を見ているようで、そこには意志とか思考というものは見えず、受動的に、刹那的に、何かを受け取ろうとしている。それは最近、流行っている「マインドフル」の逆の「マインドレス」の状態で、ロボットや機械みたいな、人間ではない「何か」になってしまっているのです。

 

私は最初、その光景の異様さにドキッとしました。そして、

 

「少なくとも、自分の子供だけはこうさせてはいけない」

 

というのが正直な感想でした。

そして同時に、自分もそうなってしまっているのかも、という反省も生まれました。

 

アメリカの中高教師達は、生徒達が授業中に携帯を使わないように注意・指導することにものすごい時間と労力をかけています。これを見ていると、一旦与えたものを取り上げるのはいかに大変かがわかるし、まして彼らの一部になってしまったものを否定するのはとても非生産的です。

 

なので、携帯電話と戦うための最善策は、「与えないこと」という結論に私は至りました。

 

しかしながら、独り立ちして家を出るまで携帯を与えない、というのはそれも非現実的でしょう。私自身もそうだったように、高校生くらいになればその必要性も高まってくるだろうし、それを無視するわけにはいきません。

 

では、本当にもうこれ以上は待てない!というポイントに達した時、親が持っておくべき心構えは、どんなことでしょうか。

 

それは、親として、

 

「子供の成長にとって(携帯電話以外の)必要なものを、全て与えきったか?」

 

という質問に、「イエス」と答えられたら。

 

つまり、親の自分から与えられるものは、全てもう与えることはできた、と思えたら、携帯電話に登場してもらっても良いと思います。

子供は成長とともに、外の世界へ出て行き、親の知らないところで勝手に成長してきたり、新しいことを身につけるものが増えていきます。親が100%与えなくてはならないものの割合は、年齢が上がるにつれてどんどん少なくなっていき、いつかは自分で決断していく。

 

しかしそのプロセスの中で、やはり「親(または家庭)が与えなくてはならない絶対的なもの」というのは存在していて、それを携帯電話だとか学校だとか塾だとかに任せてしまうのは、とても危険だということです。

この「絶対的なもの」というのは、私が思う「人間力」を培うもので、どんな相手であれ一人の人間として向き合うこととか、どこに人生の勝負場所を持ってくるかとか、境界線はどこなのかとか、どんな環境でも幸せになれるとか、まぁそういうもろもろのものです。

 

そういう人間として生きていく上で最低限必要なスキルは、一旦、携帯電話というものを与えてしまったら、教えなおすのはとっても大変です。断言します。めちゃめちゃ大変です。

これらの最低限必要なスキルを持つことを「自我(アイデンティティ)」というのだろうけど、やはりそれが曖昧なうちに携帯電話を与えるのは、危険だよなぁと思わざるを得ません。

 

ある日、休み時間中に自分の携帯電話に没頭していた私の生徒達が、箱に入ったブロックを見つけました。手を使って学習するための math manipulatives と呼ばれる教材です。

 

 

それまで動画やらチャットやらで忙しかった生徒達が、携帯を脇に置いて、黙々と手を動かしてブロックで何かを作り始めました。その姿はまるで5歳児みたいで、体は大きくてもまだまだ純粋な好奇心を持つ子供達なのだと実感したのです。

 

「現代の子供達は、こういう学びに飢えている」

 

というのが私の直感でした。

 

そこにはマインドフルな子供達が、今、この瞬間、目の前にあるものと向き合い、新しい何かを、自分の手で作り出すことに静かにエキサイトしている姿でした。

 

ハサミを使うこと

のりで貼ること

ブロックで何かを作ること

本のページをめくること

卵の殻をわること

ほうきとちりとりでゴミを集めること

暖炉に火を入れること

取れたボタンをつけること

知らない人に挨拶すること

謝ること

誰かを許すこと

 

そういうこと、携帯電話はやり方は見せてくれても、教えてはくれません。

 

どうでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

“子どもと携帯電話について” への2件の返信

  1. Erinaさん、はじめまして。アメリカの東海岸で2度目の駐妻をしております。上の子は10年生で高校受験後こちらへ来ることを決めて日本の高校へは入学しませんでした。
    日本の中学生も早い子で小学校中学年からスマホを持ち、我が家はゲームも与えていなかったのでもちろんスマホは高校受験後に購入しました。友達の中でもラストの購入者でありました。
    しかし、それ以来片時もスマホを離すことはありません。あれだけ読書もしてたのに、今では課題図書を読んで終わりです。ニュースはtwitterやWEBサイトで短文での吸収です。先生だけではなく親もスマホ画面から子供を遠ざけるための時間と労力で疲れます。スマホを与えてほぼ一年になろうとしていますが、高校生の今、自分で気づかない限り親が無理やりということは無理です。しかし他の親の意見として、ゲームをしていていいではないか、スマホでニュースを見て自分で考えればいいじゃないかという意見もあります。そういった端末を使いこなす必要があるのだからと。なるほどなと思ったり、しかしいい加減にしろ!と思ったり。Erinaさんの書いていた通り、違うことに熱中するともちろんスマホから離れますが、それが終わるとまた元の木阿弥です。私の趣味の編み物や読書と、空き時間にスマホをするのと何が違うんだ?とまで言われ答えに窮する自分です。空き時間(=休み)が多すぎるアメリカの高校生に宿題を与えてほしいと思うのは日本人の私だけでしょうか。

  2. maruさん、こんにちは。

    やはり携帯を一度与えてしまうと、親がコントロールすることはなかなか難しいようですね。
    ただ、maruさんのお子さんの場合、携帯との付き合い方というより、時間の使い方という見方をしてみてはどうでしょうか。
    うちもそうですが、子供は他にやることがあれば、携帯やゲームやテレビから離れますし、maruさんのお子さんもそのようですね。
    高校生なら、スポーツやボランティア、バイトもできる年齢です。車の運転なども視野に入ってきているかもしれません。将来の目標によっては、自分で勉強するものも見つけられます。学校からの課題に頼らず、お子さん自身が、これからの自分に何が必要で、何に時間を費やすべきかを見極めるお手伝いをしてみてはどうでしょうか。日本とアメリカの高校の違いは、それを自発的にしなければいけないかどうかだと思います。
    スマホを人生の軸にするか、それとも便利なツールにするかは、子供自身ですが、親はそれを導いていくことはできると思います。頑張ってください。

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