シティハイツの高校で教えるということ

こんにちは、Erinaです。

 

シティハイツとは、英語で “City Heights” で、サンディエゴダウンタウンから数キロ離れた、とある一画を指します。

 

サンディエゴに住んでいる日本人に「シティハイツ」と言った時、ほとんどのリアクションが以下の二通り。

 

「聞いたことがない」

 

「あー・・・」

 

「聞いたことがない」という人は、シティハイツがどこにあるかわからない、またはダウンタウンに近寄ることはほとんどない日本人の反応。

「あー・・・」という人は、シティハイツがどんなエリアか知っていて、決して良い印象は持っていない人の反応。

 

それもそのはず、サンディエゴのシティハイツというエリアは、貧困家庭が多く、犯罪率も高く、いわゆる「日本人は近寄りたくないエリア」です。

 

でも私は、あえてこのシティハイツの学校で数学を教えたかった。

その理由を今日は書いてみたいと思います。

 

日本ではあまり想像がつかないかもしれないけれど、アメリカにある「経済格差」というのはものすごく顕著で、残酷で、同時にエキサイティングなものです。車で30分もしない距離の二つの学校を比べると、それは世界のトップクラスと底辺を見ることができます。

 

アメリカに住む多くの日本人家庭は「世界のトップクラス」側の学校を選びます。進学率や評判などをもとに、「良い学校」を選ぶわけですが、サンディエゴの場合、それはほとんどが北部にあります。

建物は新品で、広くて緑が鮮やかなフットボールフィールドがあり、アウトドアのバスケットコートとテニスコートが何面もある。厳重なゲートに囲まれているキャンパスに一歩足を踏み入れると、生徒の多くは白人で、まさに映画に出てくるアメリカの学校です。

 

南部とダウンタウン近辺の学校はそれとは真逆で、映画といってもギャング映画に出てきそうな雰囲気で、落書きやマーキングがされていたり、リカーストアが隣にあったり、生徒のデモグラフィーも白人は格段に減り、多くがヒスパニック、アフリカン(アメリカン)、東南アジア系になります。

もうすでに「日本人」はそのイメージから抜けています。

 

私は、日系・日本人の子供達(北部)と、現地校の子供達(南部)という二つの真逆のグループの子供達と働いていて、違いもあれば共通点もあるという事実に気づき、その面白さがやはり今の仕事を選ぶ理由になっています。

 

どちらが良いということではなく、それぞれの個性には意味があり、理由がある。

私個人は南部の学校が好きだけれど、それは全員が理解するものではないだろうし、理解してもらいたいわけでもない。

北部には北部の先生がいて、南部には南部の先生がいる。

この二つの教職は、同じ高校教師というタイトルを持ちながらも、全く異なる仕事であり、それを選ぶ権利は個人にあるわけです。

 

ではでは、そんな「シティハイツの学校」に私がどハマりしてしまう理由を紹介しましょう。

 

 

 

ダイバーシティ(多様性)

 

これはもう絶対に譲れない。

 

私がアメリカの多様性を自覚したのは、サンディエゴダウンタウンにあるコミュニティカレッジに通った時で、同じクラスにいる世界各国からやってきた生徒たちと机を並べて勉強したときでした。

自分がどこから来たか、どんな言語を話すかに関わらず、共通した目的を持ち、教室の外で起こっていることは全て無視して、アカデミックサクセスを目指す。そのためのコミュニケーション手段として、ユニークな英語アクセントを持ちながらも、なんとかして意思疎通を図る。

そんな中で、お互いのことを理解しあったり、教えあったりするという経験は、私の人生を変えるものになりました。

そういう多様な文化を背景にもつ生徒が集まる学校には、独特のカオスがあり、それは決して悪いものではない。

あの空気は一度、身を以て経験してみないとわからないのだけれど、マイノリティの自分がマイノリティになることはなく、あくまで個人として勝負できる舞台に上がれるというのは、私にとってものすごくエキサイティングな場所なのです。

こういう出会いが私は大好きだからこそ、このシティハイツを楽しめます。

何歳になっても、世界から学ぶことは必ずある、ということを教えてくれるし、それはこちらの覚悟次第で、いつでもやってきてくれる。

 

 

教育の意味

 

どうして私たちは学校へ行くのか?

それも公立教育の意味は何か?

 

と考えた時、やはりそれは「パブリック(大衆)」のためにデザインされたものであるという根本にたどり着きます。

少数のエリートを生み出すためではなく、世界(ここではアメリカ)はそれを支える大多数の中流階級とそれ以下から出来上がっていて、このグループが毎日、仕事をし、給料をもらい、税金を支払うことで、この社会は成り立っているわけです。そして自分たちもその一部だということを忘れてはならない。(あ、バーニー・サンダースみたいになってきた・・・笑)

 

そう考えた時、公立学校で教えられるべきものは何なのか?

 

それはGPAを上げることとか、有名大学に入ることとか、そういうことではない。

私が数学を教えていて感じるのは、進学校に通う子供達ほど、数学の本来の意義とか楽しさを知ることなく、進学のためのステップで終わってしまう。

自分の力で考えて答えを見つけることの楽しみや、自分の考えを言葉にして表現できる喜びという、数学本来の素晴らしさを知らないで終わってしまうということ。

 

学校としてもテストスコアを上げることに躍起になって、そういう学問そのものと向き合う余裕なんてなくなってしまう。つまり本末転倒なことが、北部の学校では起こっている。だからこそ、子供達のストレスも強い。

私は数学を心から愛しているので、そんな風に数学が取り扱われることは耐えられないし、そういう風に数学を見ることもできない。数学は進学のツールではないし、数学そのものの楽しみを知らない子供が、将来的に数学で結果を出せるとは思えないから。

 

私は今、プラスとマイナスのかけ算も曖昧な9年生達と向き合うことで、どうやって数学本来の楽しさや美しさを伝えられるか?ということに試行錯誤しています。

学校のテストスコアを上げることよりも、どうやったら、彼らが「わかった!」と目を輝かせることができるのか、それが私のフォーカスだからです。

 

これは数学を教える立場としては、天職です。

 

シティハイツの高校には、純粋な数学が存在していて、私は毎日、それと向き合うことができる。

だから、めちゃくちゃ面白いんです。

 

 

子供達

そんな対極にありそうな環境で育つサンディエゴの高校生たちですが、根本的なところを見ると、全く差はありません。

 

北部の学校に通う子供たちが、先天的に優れているか?

南部の学校に通う子供たちは、将来の選択肢が限られているか?

 

という答えは、「ノー」です。断言します。

彼らの違いは単純な家庭環境であり(この記事をぜひ読んでください)、彼ら個人とはまっっっっったく関係ないものです。

 

新しいことができれば「やった!」と喜び、別のことにチャレンジしたくなる。

難しいことに直面したら、逃げたくなったり、泣きたくなる。

ちょっと手助けしたら、これまでの経験とつなげて、解決策を見つけようとする。

 

これって、私たち大人だってそうです。

 

彼らのおかげで、私は人間のそういう根本に触れることができるし、リマインドさせられている。

そして、実際にこの高校生たちがあと数年もして社会に出た時に、結果として現れるのは家庭環境の差ではなく、個人の力量の差。それが現れた時に、人間の本来の資質が見えてくる。だからエキサイティングなんです。

 

 

 

これらの理由があって、私はやっぱりシティハイツを選びました。

 

表面的なもので何もかもを判断しがちなこの21世紀に、周りの時間が止まったかのように感じるシティハイツの学校で、私は14〜15歳の子供たちと向き合い、「はい、どんどんやりなさーい!」と声を張り上げながら、「センセェ・・・」と、への字口になる生徒と数学をやる。

 

これこそが教育の醍醐味だな、ってことに気付き始めています。

 

 

 

 

 

“シティハイツの高校で教えるということ” への2件の返信

  1. はじめまして。高校1年生の娘を持つ、日本在住の主婦です。娘は、8月1日からGAの田舎町に交換留学生として派遣されています。10年生です。幼少期をDEで過ごしたこともあり、10年ぶりのアメリカを楽しみに渡米しました。日本では数学が好きでしたので、アメリカの数学も興味津々のようです。それで私も(単なる興味本位で)アメリカの数学のことを調べていまして、こちらにたどりつきました。
    私も、日本で高校英語科の非常勤講師をしています。教師としての視点に大変共感し感銘をうけました。これからもEricaさんのブログ楽しみにしています。

  2. chieさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    子供にとって、たくさんの経験って絶対に後々の財産になると思うし、親がそれを肯定してあげたいですよね。
    これからもぜひ遊びに来てください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です