こんにちは、Erinaです。
「うちの子、ちょっとまわりと違うかも・・・」
「同級生はこんなことできるのに、うちの子は・・・」
「誰かに相談したいけど、どうしたら良いかわからない」
「このままだと、どうなるのか不安」
こういう疑問、親なら誰でも持ったことがあるはずです。
早い場合は1歳になる前からそういう意識を持つ親もいるし、小学校に上がって同級生が増えることをきっかけに、そう感じることが多いかもしれません。
私が最初にそういう不安を感じたのは、息子のスピーチセラピーの時期でした。
この記事でも書いたように、言葉に遅れがあった息子を見ていて、発達障害や自閉症について勉強しました。
そこでドクターはスピーチセラピーを紹介してくれたわけですが、やはりその経験から、「今ないもの」に悲観的になるのではなく、「どうしたら彼の成長を促せるか?」という考え方にシフトすることを学んだわけです。
そして親にとって、そういう考え方ができるかどうかというのは本当にクリティカルな部分で、子供自身がどうやって困難を乗り越えていくか?というところにも影響するということが、11歳になった息子を通して見えてくるようになりました。
そして現在、アメリカの教育現場に身を置くことで、日本の親とアメリカの親で、そのメンタルに大きな違いがあることに気づきました。
今日は、それについて書いてみたいと思います。
「学校生活」というもので成功するには、様々なスキルが必要です。
協調性・忍耐力・チームワーク・リーダーシップ・学力・自己表現力・・・などなど、様々なものが挙げられるでしょう。
しかし、何をとっても完璧な子供など、(大人にもいないのと同じで)存在しません。
しかし、何か一つでも周りのレベルに達していないと、「あの子は◯◯だから・・・」とレッテルを貼られ、学校という場所が途端にいづらい場所になってしまう。
この傾向は、アメリカに比べて日本はとても顕著です。
というのも、アメリカの学校、特に私がいるようなカリフォルニアのパブリックスクール(公立学校)では、あまりに多様性が進んでいるので、もうみんな異なって当たり前。髪の毛のことなんて全く話題に上がらないし、服装だってバラバラ。話し方や歩き方や食べ方、書き方や読み方で、他人から何か言われることなんてありません。
しかし、日本のように、みんな黒髪で制服で家庭環境も似たようなどんぐりの背比べの場合、本当にちょっとの違いが「全く世界が違う!」みたいな扱いになってしまう。
そんな二つの学校文化を比べて感じることは、「弱い部分を正す」という考え方か、「強い部分を伸ばす」という考え方に反映されています。
つまりこういうことです。
例として、国語・数学・理科・社会・英語の5教科、5段階評価で考えてみましょう。
ある子供の成績表が、以下のようなものだったとします。
国語 5
数学 2
理科 3
社会 4
英語 1
この成績を見て、どう思うでしょうか?
もし親として、この子供の学力に介入するとしたら、どこに目がいくでしょうか?
まず、英語の「1」に目がいくかもしれません。
そして次に数学の「2」。
この2科目をとりあえず「3」にしよう!と数学と英語のチューターを探すでしょうか。
これはやはり日本の親に見られる傾向で、「弱い部分を正す」または補強するというのが介入という考え方です。
では、アメリカではどう考えるかというと、注目するのは英語と数学ではなく、国語と社会。
つまり、「5」を取っている国語と、「4」を取っている社会です。
私がいつも、新しく出会う子供達に最初にする質問は、「どんなことが好き?」です。
学校とは別のところで、この子はどんなものに興味があるのか?
何をきっかけにして成長を伸ばしてあげられるか?
ということを発見するには、やはりその子の得意分野や興味のあるものを知らなくてはならない。
これは教職課程でもカバーしたもので、新学年が始まって最初にやることは「生徒の興味調査」でした。数学を教える上で、彼らはスポーツが好きなのかゲームが好きなのか。ミュージシャンはいるか、アーティストなのか。そういうことを、教師が知らなくてはならない。
上の成績表を見てわかることは、
- おそらく文章やストーリーが好き
- 日本語が強い
と感じるので、そこからスタートします。
国語が好きなのはどうして?
社会のどんなことが好き?
ということを聞いて、「将来は作家になりたい」とか「文章は家で書いている」ということがわかれば、それをもっと伸ばして、何か形にできるお手伝いはできないかな?と考えます。
例えば、将来は作家になりたくて家で文章を書いているとしたら、それを見せてもらい、学生向けの文学賞に応募させるとか、有料ブログなんかで記事を書かせてみるとか、そういうところに頭を使うわけです。
そういうことが見えて初めて、もし大学進学したければ、必要最低限の数学がどんなものかわかってくるし、もし高校卒業後は作家デビューするというのであれば、大学すら必要ないかもしれない。
そうした時に、苦手な英語と数学に時間とエネルギーをかけることが、本当に大事なことかどうか?と親も考えさせられるわけです。
アメリカの親や教育現場を見ていて感じることは、子供を周りと比べて足りないものを強制的に補うのではなく、子供の個性と向き合い、子供が得意で好きなことを伸ばしてあげるのが大人の役割というところ。
じゃあ数学は全くやらなくても良いか?ということではないけれど、必要最低限(進級とか卒業に必要なレベル)に達していればそこは重要ではなく、それよりも子供の才能探しを一緒にやってあげる。
そしていつか、その道を選んだ子供が、独り立ちして歩いていけることが最終目標。
そこが日本とアメリカ、子育てにおいての価値観の違いかなと感じます。
今回の例では主要5科目を使いましたが、これは上で述べたような
- 協調性
- 忍耐力
- チームワーク
- リーダーシップ
- 自己表現力・・・
なんかでも同じで、他人とつるみたくない子はつるまなくて良いし、その代わり個人でできるものを極めさせる。学校のルールに従うことは大事だけど、無理にグループに参加したり、人前に立つ必要なんてないわけです。
社会に適合することと、個性を潰すことは別です。
個性を生かすということは自分自身との戦いであり、周りに許してもらうものではない。
そのために親としてできることは、子供の性格や興味の分析と、それを生かせる場所を探し続けること。
それこそが「絶対的」な子育てであり、周りと比べる「相対的」な子育てではないわけです。
そういうことが見えてきたとき、全く同じ子供なんて2人として存在していなくて、全員がバラバラで、全員が素晴らしい。
そういう風に思えてきます。
どうでしょうか。

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