アメリカ小学校の道徳教育

こんにちは、Erinaです。

 

今日は、アメリカの「道徳教育」について書いてみたいと思います。

 

日本では、私が小学1年生か2年生の頃に「どうとく」の時間が土曜日にありました。内容としては、「横断歩道を渡りましょう」とか、「お年寄りには親切にしましょう」ということが書いてあって、「そんなのあたりまえじゃん」という感想だけが残った記憶があります。

 

私が日本の道徳の授業から感じることは、日本社会のあれに通じているということです。

 

それは、「マニュアル対応」。

 

コンビニでも、ファミレスでも、電話でも、「絶対にマニュアルだな」という対応で溢れている日本。

そのカスタマーサービスのクオリティは高いと思う人もいれば、やはり物足りないと感じる人もいるわけですが、「この時はこうしろ」というマニュアル対応というのは、やはり私が小1で感じた「そんなのあたりまえじゃん」の範囲で完結してしまい、根本的な解決にならないことも。

 

アメリカの小学校での道徳教育というのは、まずは「良き市民 (Good citizenship)」という概念が根底にあります。

 

それがどういう意味なのか、ちょっと具体例を使って紹介してみましょう。

 

先日、娘があまりハッピーじゃない様子で学校から帰ってきました。

聞くと、クラスメイトの女子達の間で、なんだかもやもやしているもの (Girls drama) が起こっているそうなのです。

 

2年生・・・あぁ、そういうのが始まる年頃よねぇ・・・。と思いながらも、話を聞いてみると、シナリオはこう。

 

 

クラスメイトのステイシー(仮名)は、うちの娘がライラ(仮名)と遊ぶのをよく思っていないらしい。

もともと、ライラとステイシーは仲良しだったものの、最近になって、ライラはうちの娘と遊びたいらしい。

どうしてかというと、ステイシーは “bossy”(威張って、あーだこーだと命令する) だそうで、ライラがそれに疲れちゃったとか。

 

で、娘がライラと遊んでいることを気に入らないステイシーは、一学年上のいとこのニコラス(仮名)を使って、うちの娘に嫌がらせをしだしたらしい。

娘は、休み時間に学校のスタッフに嫌がらせを報告したものの、取り合ってくれなかったそうで、すごく嫌な思いをした。

 

 

 

というのがストーリー。

 

まぁよくありそうな・・・。

 

で、このストーリーを聞いた私は、まず物事を整理しました。

 

使うのは、「事実」「意見」に分ける方法です。

 

「事実 (fact)」は、誰から見ても、「あぁ、それは起こったよね」または「起こらなかったね」と同意できるもの。

逆に、「意見 (opinion)」は、立場が違ったら、違う答えが出てくるかもしれないもの。

 

“Fact or opinion” という考えは、アメリカの国語教育でも盛んに取り込まれていて、情報を客観的にプロセスする重要なスキル。

この境界線を見つけられない人や、本当は「意見」なのに「いや、これは事実だ!」と主張する人は、やはり物事を客観的に見ることができない、ということになります。事実と意見を分けて考える、という練習は、国語教育の枠を超えて、人間社会でうまくやっていくスキルに直結するわけですね。

 

で、今回は応用として、道徳教育に使ってみます。

 

上のシナリオを分析してみると・・・・

 

事実

  • ライラはステイシーではなく、うちの娘と遊びたい
  • ニコラスが娘に嫌がらせをした
  • スタッフが取り合ってくれなかった

 

意見

  • ステイシーが bossy
  • ライラはステイシーに疲れた
  • ステイシーはうちの娘に腹を立てている

 

という感じでしょうか。

 

事実は実際に起こった出来事や、人間の行動を基にしている一方で、意見というのは、「私がこう思った」「あの子はこう言っている」という意思表示を基にしています。

 

こうやって情報整理した後、私の対処はこう

 

事実:それぞれの状況でどう対応したら良いかを娘に考えさせる(将来的に、同じことが起こった時に、適切な対応をするため)

 

意見:別の人の立場になって考えてみる(子供の視点では客観的になる絶対的経験が足りないし、「自分は100%正しい」と教え込まないため)

 

たとえば

 

事実:

  • ライラはステイシーではなく、うちの娘と遊びたい→ライラと遊べば良い
  • ニコラスが娘に嫌がらせをした→「やめて」と毅然と言って、立ち去る
  • スタッフが取り合ってくれなかった→取り合ってくれるところまで行く

 

という話をすると、「もう全部やっている」とのこと。

オーケー、じゃあ他にできることはないよね。

 

意見:

  • ステイシーが bossy→ステイシーは友達をキープしたいから必死なだけ
  • ライラはステイシーに疲れた→それはライラとステイシーの問題
  • ステイシーはうちの娘に腹を立てている→友達を失いそうで、寂しいのかもしれない

 

 

と言ってみると、「ふーん、そっか・・・。」と言う娘。

 

それを踏まえて、

 

「だから、ステイシーが意地悪だからといって、あなたが意地悪返しをする必要はないし、ステイシーが仲間に入りたいなら入れてあげるべき。

ただ、嫌なことをされたら、ポライトに言いなさい、『それは良くないわよ』って。」

 

(Because she was mean to you doesn’t mean you can be mean to Stacy. If she wants to play with you girls, you should include her. But if she bothers you, you need to say that you don’t appreciate that kind of behavior.)

 

“appreciate” は「感謝する」という意味ですが、こういう時にも良く使われますね。

同じ「私はそれを欲しくない」が、”I don’t want it.”よりも、”I don’t appreciate it.”のほうがポライトです。

 

・・・・と、こういう会話を持ってみると、娘はまぁまぁすっきりとしたようでした。

 

この次の日、たまたま Teacher-Parent Conference(面談)があったのですが、先生からの連絡シートには、こうありました。

 

「娘ちゃんは、ガールズドラマに参加しない」

 

あらま。

 

「ちょうど、この会話を昨夜したところだったんですよ。」

 

と先生に伝えると、ここでプロの意見を聞くことができました。

 

  • ちょうど、ガールズドラマが始まる年齢である
  • ガールズドラマに巻き込まれない子供というのは、自分に自信のある子である
  • 娘と本心では友達になりたい子はとてもたくさんいる
  • 娘は、この年齢で適切な対応を身につければ、将来的にナチュラルリーダーになれる

 

ということを踏まえ、やはり、「相手を傷つけず、売り言葉に買い言葉ではない言い方で、自己表現することは大事だし、親子でそういう会話を持つことは大事」だと言われました。

そして、授業中は、ステイシーと、パートナーになったりして協力しているという娘。やはり休み時間と授業で、ステイシーが仲間はずれにならないように、ガールズ同士のバランスを取っているそうで、素晴らしいことだ、とも言われました。

(まぁね、なんだかんだ言って、そんなもんよね、というのが親の正直な感想ですが)

 

ここで注目したいのは、アメリカの教室では、先生が「裁判官」にならないこと。

どういうことかというと、先生が、「ステイシーが悪い」とか「うちの娘が悪い」と一刀両断してしまうと、その子供の居場所がなくなってしまいます。

アメリカの小学校教師の役割は、もっと一般的な概念を伝え、具体的な部分は、子供達自身に「何が間違っているか」を判断させる、というのが徹底しています。

 

そんなわけで、やはり道徳教育というのは、「マニュアル対応」ではなく「自分で考えた上での決断と行動」が必要だと思うし、親があらゆるトラブルから保護するのではなく、何かが起こった時に子供自身が行動する勇気と知恵を育てるべきなのではないでしょうか。

そこにコミュニケーションスキルが入ってくるあたり、アメリカっぽいなぁと思いますね。

 

どうでしょうか。

 

アメリカの道徳教育についてはこちらでも読めます

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です