美しい手書きは必要か?
こんにちは、Erinaです。
この記事で、紙とペンはまだまだ大事だ!ということを書いたのですが、今日はちょっとそれに反しているような記事を書いてみます。
いや、私的には反してないんですけど、その説明も後ほど。
私が、日本人対象のワークショップなどで驚くことは、日本人の手書きがきれいなこと。
手書きは英語で “Handwriting” ですね。
受付でサインアップする際に、名前、電話番号、メールアドレスなどを書いてもらうことがあるのですが、そこで、「この字は読めないなぁ」ということはほとんどありません。
これまでの仕事から、たくさんの日本人以外の手書きを見てきましたが、特にアメリカ人男性が書く文字で、「この人の字はきれい!」と思ったことは今までに一度もありません。女性はみんな丸文字。笑
やはり日本人は、老若男女を通して手書きの文字がシュッときれいです。
自分の手書きを日本人以外に褒められたことがある人は多いはず。
私自身も、書道も日ペンの美子ちゃんもやったことがありませんが、「字がきれい!」(Your handwriting is beautiful!) と思わぬところで言われたりして、「普通だけど・・・」なんて思うことがあります。
それはやはり、日本の教育の信念には「きれいな文字を書く」というものが根強くあり、アメリカの学校教育に比べてかなりの時間と労力をそこに費やしている印象です。
うちの子供達も例に漏れず、手書きの文字をきれいに書くということを家でやったことはありませんでした。
娘はなぜか小さい頃からかなり注意深く文字を書く子供だったので、読みやすい字を書きますが、息子の手書きはひどいです。小学校に入学した頃は、「先生に申し訳ない」と思ったくらいでした。
学年が上がれば変わるかな?なんて思っていても、もちろん変わることはなく、相変わらずかなり読みにくいものを書きます。
しかし今回、教職課程で勉強し、様々な年齢やバックグラウンドを持つ子供達と触れ合う中で、その考え方が変わってきました。
まず、手書きをする場面というのは、自分がわかれば良い場合がほとんど。
数学の式や途中計算(英語で “work”)というのも、自分がわかれば良いものがほとんどです。
というのも、これからのテストフォーマットは変わってきて、だんだんオンラインで受けるものになっていきます。
つまり、手書きのテストが減っているということ。
そんな中で、計算や式というのは、あくまでスクラッチペーパー上のものであり、「答案」というものではありません。
大学レベルの数学も、計算というよりは作文みたいなテストなので、「この部分が読めないから減点」ということはほとんどなくて、全体的な論理が一貫しているかとか、正しい理論を使っているか、というところに重点が置かれます。
また、作文も、手書きでエッセイを書くことはこれからどんどん減っていくでしょう。というか、私ですら、アメリカに来てから手書きのエッセイや作文を書いたことはなくて、大学時代も全てタイプしたものでした。
うちの子供達も、提出する最終段階のエッセイは全てタイプしたものだし、クロムブックを使って時間内にたくさんタイプする練習をしたほうが、実用的です。
この傾向はどんどん進んでいくだろうし、今さら、手書きで書かされる文書というものはほとんどありません。pdf ファイルの直接タイプソフトなどもすごく出回っています。
たぶん
アメリカ人の手書きがひどい→タイプするシステムが発達→なおさら手書きをしない
というループなのかもしれません。
手書きが苦手な子も、タイプしたらたくさん作文が書けるという子が多くて、やはり “Special Ed” と呼ばれる特別支援が必要な生徒も、そのようなケースがとても多いです。手書きで一段落をやっと書ける子が、タイプさせたら2ページをあっという間に書けたりします。
やはり効率的な面だけではなく、その子の真の能力を測るという意味で、こうやって様々なツールを使うことは、”Differentiation” と呼ばれ、教育者達がアンテナを広げているものでもあります。
冒頭の「紙とペン」の話に戻りますが、では、なぜそんな中で、これらの道具が必要なのか。
それは、紙とペンというのは、頭の中にあるものを引っ張り出すための道具であり、最終的な産物ではなく、その工程(プロセス)を行う場所だからです。
紙とペンは、やはりタイプするのに比べて、自由があるし、瞬間的に形にできます。それは文章ではなくて絵かもしれないし、数字かもしれない。頭の中の思考というのは、一方向ではないので、様々な方向や角度に向かって伸びたり縮んだりしているもの。それを形にするにはやはり真っ白な紙と鉛筆が一本あると、取っ掛かりを見つけやすいわけです。
なので、そこで文字のきれいさを追求するあまり、思考のアウトプットに余計な時間を費やしてしまうと、必要なものが出せないかもしれず、それは本末転倒です。
作文が苦手な子というのは、決まって真っ白な作文用紙を目の前にして、「ウーン、書けない。」と悩んでいます。
私はそこで、「その紙を裏返してごらん」と言い、作文用紙の裏面に思いついたものや言葉などをどんどん書き出させます。
そうやってチョロチョロと湧き水のように出てくる思考を整理し、言葉にし、文章にしたものこそが作文なのです。
そしてこの記事でも書いたように、「作文はたくさん書ければ書けるほど良い」という価値観も変わってきていて、「量より質」の教育方針が進められているアメリカでは、やはり自分の意見や思考を的確に表現できる子ほど「賢い」と考えられるようになってきています。
あくまで紙とペンは、プロセスの場所であり、そこではどんなに字が汚くても、絵が含まれていても、数字があってもオーケー。
数学の途中計算 (work) も、「読めるかどうか」より、「やったかどうか」のほうが大事なので、自分なりに道順を辿ってゴールに着いたのなら、それで良いんじゃない?という程度です。
そういう意味で、手書きが好きな子はまぁやらせて良いし、きれいに越したことはないけれど、苦手な子にわざわざ強制するのはちょっと時代を逆行している、というのが私の感覚です。
どうでしょうか。
脳梗塞で失語症になり、発語できなくなってしまった患者さんたちの世話をしている言語療法士が繰り返し話していたことを思い出します。彼女によると:
こうした高齢の患者さんは左手で文字を書く練習をしたり、非言語的な表現を駆使したりして、それなりにやっていける。だけど、生まれた時からコンピューターを使っている世代は、スクリーンを見続けることと指先をちょこちょこ動かすことばかりで、そもそも脳の発達に偏りがあるに違いない。ページをめくったり消しゴムをゴシゴシしたりすることもないし、落書きもしない(発想も乏しい)。困った時に代用できる材料が少ない。この世代が将来失語症になったらどうなるだろう。失語症対応のコンピューターを買うための貯金をしてあることを望む。人と直にコミュニケーションを取るソーシャルスキルそのものが先ず欠けているのだから。
そうなる頃には、私たちはとうにあの世だから心配してあげても仕方がないという感じで話は締めくくられたように覚えています。