ADHDと言語と楽譜
こんにちは、Erinaです。
今日は私のクラスにいる、ある生徒との会話をきっかけに考えたことを書いてみたいと思います。
先日、うちのクラスにいるADHDの男子生徒トミー(仮名)が放課後にこう言いました。
「先生、僕ね、授業でやっている内容はわかるんだ。だけど、こう・・・『言葉』にしようとすると、できないんだ。」
突然のトミーの告白に私は少し驚いたのですが、こう聞き返しました。
「言葉にしようとするってどういうこと?」
トミーは一生懸命に説明してくれました。
「なんていうか、式とか計算とか、『やらなきゃいけないこと』はわかるしできるんだけど、それを説明したり、されたりとか・・・言葉にしようとすると、なんかつながらないんです。」
「それは興味深いわね。でもあなたはちゃんと宿題もできてるし、自分なりに理解できるならそれで十分だと思うけど。」
と言うと、「オーケー」と言って帰ったトミー。
でも私は彼の言葉がなんとなく心に引っかかっていました。
家に帰って、ふとリビングにあるピアノが目に入ると、数日前に自分に起こったある出来事を思い出しました。
それは、「楽譜を読む練習」をしようと思った日曜日のことでした。
この記事でも書いたように、ジャズピアノに興味のある私ですが、実は子どもの頃から楽譜が読めません。聞いた曲をいわゆる耳コピできても、楽譜は読めないのです。でもその日は読譜の練習をしようと、簡単な童謡の楽譜を開いたのでした。
選んだ曲は “Happy Birthday To You”。
馴染みのある曲だから、楽譜をスラスラ読む練習に適していると思ったのです。
実際に楽譜を読むと、音符を一つ一つ弾いていくことはできるし、休符なんかもだいたい覚えている。
よし、じゃあ一通り弾けたから最初から弾いてみよう、と戻ってみると・・・不思議なことに、頭の中に何一つ残っていないのです。
あの馴染みのあるメロディが頭の中に流れることもなく、youtubeで練習するときのように指がメロディを追いかけることもなく、ただの「無音」がそこにはありました。
私はその瞬間、呆然として、なんとも言えない無力感が残りました。
「どうして?」
たった今、一つずつ音符を追いかけたはずなのに、そこに「ミュージック」というものは存在しなかったのです。
私はトミーの言葉を聞いて、自分のピアノを見たとき、その感覚が戻ってきたのを感じました。
「こういうことだ!」
トミーの言う、「言葉にしようとするとわからなくなる」というのは、まさにこういうことだったのです。
つまり、”Happy Birthday To You”のメロディは頭の中にあるし、それを追いかけてピアノを弾くことはできる。
トミーも同じで、連立方程式を見れば、何をすればxとyを見つけられるか知っている。
だけれど、それを音符や英語みたいな「言語」にしようとすると、突然、それらは姿を消してしまう。
音楽や数学自体はあくまで無形の「コンセプト(概念)」であり、音符や英語は有形で既存の「表現」だから、脳がこれらを別々に司っているのだろうし、私やトミーみたいにこれら二つがつながらなかったとしても、そういうことはあるよね、と納得してしまうのです。
これはたとえば、外国語で物語を読む際、単語一つ一つの意味はわかることと、頭の中にその情景が浮かぶことは別、という状況と同じだと思います。
次の日、私はトミーに読譜の練習をしたことと、そこで感じた無力感について伝えました。
「先生の言ってることわかるよ。僕もギターとピアノを弾くけど、Youtubeを使うっていうのもわかる。」
そうか、やっぱりね。
何か共通しているところがあると思ったんだ。
「でね、トミー。大事なのは、『自分のことをわかっている』ということだよ。こうすればわかる、こうすればわからない、とあなたはすでに分析したのだから、それは良いことだと思う。あなたの年でそれを理解できている人はそんなに多くはないはずよ。」
ADHDなどの学習障害は、やはり白黒つけられるものではなく、程度 (Degree) の問題なので、はっきりと見えることもあれば見えないこともある。ただ、教師として、親として、子どもの学習を見守るためには、こうやって一人一人の学習パターンや長所・短所を見極めて、そこからできることを探していく。
人間の脳って面白いなぁ。