アメリカの中学国語と向き合う

こんにちは、Erinaです。

 

数学教師らしからぬタイトルにしてみましたが、今回は我が家が現在経験している「国語」とのお付き合いについて書いてみたいと思います。

 

このブログでも書いているように、子どもの読書、そして国語教育はアメリカの学校教育の多方面でとても重要視されています。

 

両親が数学教師である我が家でも、やはり数学より国語、できるなら文学作品を読め、というのは子ども達に伝えていて、国語の大切さを日々、伝えています。

 

そんな中で、7年生(日本の中一)の息子と、5年生の娘は、とても両極端な国語との付き合い方をしてきました。

 

小学校中学年あたりから、読書にそれほど情熱を示さなくなってきた息子。

最近読むのは興味があるコンピューターや飛行機関連のブログ記事ばかりで、毎日コンスタントに活字を読むことはしなくなりました。

国語の成績はキープしつつも、そろそろ年齢相当レベルから伸び悩んでいる様子。

 

それとは逆に、4年生の時点で、先生から「もうどんな本を読んでも良い」と言われる読書レベルの娘。最近になって名作「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック)に興味を持ち、文学からアメリカ史を学びたいと言っています。

 

この二人の会話を聞いていると、やはり彼らの国語力の差は明らかで、理路整然と言葉が流れるように出てくる娘に対し、口喧嘩になるとさっぱり勝てない息子。

 

これはインプットの差かな…と思っていた頃、息子の読解問題でチラホラとBやCを見かけるようになったのです。

 

まずは先生にメールを書かせます。

「どうしたら読解問題でAを取れますか?」と質問した彼に、「ディテールが足りない」という先生からの返答。うん、やっぱりね。

 

これはもう総合した国語力の底上げが必要で、今のうちに向き合っておかないと、これからやってくる高校・大学の読書に絶対についていけなくなるよ、読書が嫌いとか言ってる場合じゃないよと息子を説得。

事実、これから様々なクラスで読まされる量を考えると、小学低学年までの惰性で乗り越えられる読書ではなく、「国語」という科目でギアチェンジが必要になるのがこの年齢なのです。

 

その事実を理解した息子は、読みたい本を一冊選び、私と二人で毎日、朗読しながら読解していくことにしました。

量よりも質。

文章の内容と背景を深く理解することが目的です。

 

彼が私の本棚の中から選んだのはこの作品。

 

チャプター1を彼に朗読してもらってわかったのは、ズバリ、「英語の言語リズムがない」ということ。

やはり言語、特に英語みたいなイントネーションの強い言語にはリズムがあり、それにのっとった文章構成があるということ。

そのリズムがどうも欠けている息子は、息継ぎや息の配分がどうもうまくいかないようで、なんとも聞いていて息苦しそうなのです。

呼吸するように、歌うように文章を読める娘とは大違いで、きっとこんなところから読書と距離ができはじめたのかも…と色々なことが見えてきました。

 

もうこれは練習するしかないということで、短い文章をとにかく読み込んで、内容を深掘りするような質問をすることにしました。

 

ここで大事なのはやはり、題材選び。

子供が本の内容自体に興味があること。

幸いにも、チャプター1を読んだ後、息子はこの本が気に入ったらしく、「これなら読めそう。もっと読みたい気持ちになる」ということでした。

興味のないことを読まされることほど苦痛なことはありませんから、やはり子供自身が読みたいと思える本を選ぶことは、この記事でも書いたように、すごく大事です。

 

「主人公はどんな子?あなたはこの子と友達になりたいと思う?」

「ママにこの子を友達として紹介するとしたら、どんな説明をする?」

 

など、息子が物語の一部になれるような質問を繰り返します。

 

同時に、黒人少年が白人警察に不当な扱いを受けるという物語から、Black Lives Matter (BLM) やそのきっかけとなった、トレイボン・マーティン少年の事件(2012年)の経緯なども説明。

 

「黒人を殺した白人(警官)達は殺人罪に問われないの?」

 

彼の口から、やっとこの社会情勢に一歩突っ込んだ質問が出てくるように。

 

そこで、「場合による」という答えとその理由を説明します。

多くの場合、当事者以外に目撃者がいないこと、一方が亡くなっていることなどから、状況判断がすごく難しく、殺人と立証されない場合があること。

メディアのせいでこの関係性がすごく曖昧なものになっていて、警官の対処が妥当だったにも関わらず、警察側が責められているケースもあること。

など、本当にケースバイケースで、一般化してしまうのはとても危険だということ。

 

…と、約30分間ほどの対話でしたが、短い文章に始まり、それをきっかけに現在、この国で起こっていることへの関心と理解、共感が芽生えた息子。

 

やはり国語力というのは単純に単語を目で追う能力ではなく、そこにある背景の理解と他人への共感につながるということを実感しました。

 

そしてこれらのスキルは、この21世紀で生きる力に直結するということ。

インターネットのおかげで世界はぐっと近くなり、コミュニティ内での多様性は増し、多角的な視点が常に要求されています。

そんな時に、目の前にいる人をどこまで理解できるか、というのは年齢や人種、国籍に関わらず誰しもが必要なスキルなのです。

 

乳幼児期に始まった絵本の読み聞かせから、一人で読む時期 (independent reading) に入り、次のステップへ。

そこでは、読んだ内容を、社会情勢や自分の人生に照らし合わせ、何かしらの結論を導かなくてはなりません。Critical readingと呼ばれる段階です。

それがアメリカの中学国語であり、高校・大学へ進めばもっと複雑で細かい文章になっていきます。

 

どうでしょうか。

 

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