
アメリカの国語とアカデミックフリーダム
こんにちは、Erinaです。
今日は久しぶりに、アメリカの国語教育について書いてみたいと思います。
今年から中学生になった娘。
相変わらず国語の授業は大好きで、国語教育における日米の違いなんかを私は日々、娘から学んでいるわけですが、今回、少し考えさせられることがありました。
上の記事でも書いたように、「国語の教科書」というものが使われないアメリカの学校では、代わりに、先生が受け持ちの生徒達の興味・読解力・デモグラフィーなどを分析し、毎年、授業で使う本を選びます。
去年の5年生のクラスではこんな本を読んだそうです。
先日ちょうど、一冊の本を授業で読み終えたそうです。
映画にもなったPercy Jacksonシリーズの第一作目で、これも彼女は前年の国語で履修済みでしたが、「先生が変われば取り上げ方が違うから、それはそれで良い」のだそうです。
この本が終わりに近づくと、娘は先生にこんな質問をしたそう。
「次はどの本を授業で読むんですか?」
先生は本棚から一冊の本を取り出しました。
「これにしようと思うんだけど、どう思う?」
それを見た娘、
「その本はもう読みました。」
すると先生、
「あら、そう。じゃあこれは?」
と別の本を取り出して見せます。
「それも読みました。」
そんなやりとりを数回やった後に、娘がまだ読んでない本に辿り着くと、
「オーケー、じゃあ次はこの本にしましょう」
と先生。
結果、娘の読んだことのない本を読み始めているそうです。
このエピソードを聞いて、私はとにかく衝撃でした。
授業で使う教材を、そんなふうに決めちゃって良いの?!
それも国語の授業での通読本ですから、一冊をかなりじっくり読み込むことになるし、長さによっては1〜2ヶ月の時間をかけることになります。
日本のように文科省が認定した教科書を使い、日本中の高校生が同じ作品を読むと思ってきた私にとって、この決断は衝撃的だったのと同時に、これこそが真の「アカデミックフリーダム(学問の自由)」なのでは、と思いました。
そもそも、これは誰のための国語教育なのかと聞かれると、先生のものでも学校のものでもなく、生徒のもの。
だから、生徒達がその作品に興味を持ち、内容を理解し、深く読み込む力をつけることが何よりのプライオリティであり、それこそが先生の選択基準なのでしょう。
後にわかりましたが、こうやって先生が生徒達に本を選ばせるのは今回が初めてではなく、小学校でも多数決で授業で使う本を選ぶなんてこともあったそうです。
あかりちゃんがこの記事でも書いてくれたように、一つの作品を国語の授業で読んだ時、そこから何を得られるかというのはあくまで個人的なものであり、画一的に「正解はこうだ」と教師や大人から教わるものではないわけです。
あくまで、生徒自身が読みたいものを読み、思考を作り上げ、それについて話し合ったり、学び合う、というのがアメリカの国語教育のようです。
今、ロシア国内のプロパガンダなどのニュースを聞いていて、私達が日々、頭に入れている情報は、どこかで誰かに何らかのコントロールをされていて、それが真実かそうでないかというのも、フィルターがかけられていることを実感します。これはロシア、日本、アメリカ、世界中どこにいてもそうだし、それはその国の権力者達にとって都合の良いフィルターです。
世界や他人に対して、何をどう思うか?というのも、そう言ったフィルターの影響を受けているわけです。
そんな中で、小中学校で、国語の通読本というかなりクリティカルな媒体を、生徒達に選ばせるというのは、とても芯をついているというか、思想の自由、学問の自由というものが徹底しているなと思うのでした。
みなさんは、どう思いますか?