
親が欲しいものと、子供が欲しいもの
こんにちは、Erinaです。
今日はまず最初に、一つの動画を見てください。
日本の親子達にとってビッグイベントのひとつ、「ランドセル選び」においての社会実験です。
昨今のランドセルはたくさんの色があるみたいで、このような実験にはもってこいですが、この動画を見てどう思いましたか?
私が一番最初にこの動画を見た時に思い出したフレーズは、「無条件に愛されているのは親のほう」でした。え、逆じゃない?と思うでしょ?
子供というのは、自分の親が好きなもの、嫌いなもの、喜ぶこと、悲しむこと、そういうことをものすごくよく把握している。大人のようにそれを言語化したり、形にできないだけ。
だから、最初のランドセル選びでは、全ての親達が納得して満足するものを選べました。
「ママはピンクがかわいいっていつも言う」
「パパが好きそうかなと思って。だってかっこいいから」
「このキラキラしたところがママが好きそう」
「自分はこんなにも愛されているのだ」ということを自覚した時、親達は泣きそうな表情になります。
では逆に。
「子供は親に無条件に愛されている」というのはよく聞きますね。本当にそうでしょうか?
子供が幼い頃は、親という存在はその子の世界の全てで、絶対的正義でした。
そこから徐々に子供の中に「自我」というものが目覚め始め、親の意向とは異なる行動をしたり、親の趣味とは異なるランドセルの色を好きになったりします。
それでもその子を愛せるか?
と聞かれた時に、100%イエスと答えられたら、それは無条件の愛情でしょう。
それは衣食住を与えるとか、学校に通わせるということではなく(それらは「義務」であり、愛情に関わらずやるべきことで)、その子個人としての選択を受け入れられるかどうかという親の力量の問題です。
このような選択は、子供の年齢が上がれば上がるほど増えていきます。
- 学校の勉強との向き合い方
- 部活などの課外活動
- 進路
- 友人選び
- お金の使い方
などなど、子供が自分の世界を築くために必要な段階が増えていくからです。
アメリカはやはり「個人主義」の国で、親と子供は別個人であるし、そうあるべきだ、という考えが、日本に比べてかなり浸透しています。
「子供は親の所有物ではない」という考えです。
もちろん子供が18歳になるまでは、安全と衣食住と教育へのアクセスを提供しなければならないし、それを怠ると虐待として通報されかねません。
しかし18歳になれば、自分であらゆる書類にサインできるし、親にそれまでの責任もありません。いわゆる「自立」です。
だからこそ、子供のスキルや能力をそこに向かって準備するべきだ、というのが高校教育の根底にあります。
「子供に自分で選ばせる」ということを小さい頃からやっていなければ、子供は自分で選ぶべき時に、選ぶことができなくなります。
「将来は何をやりたいか?」と聞かれた時に、自分で決められない。やりたいことがない。自分が何をやりたいのかわからない。
もっと掘り下げてみると、「親は〇〇をやれという」とか「〇〇だと仕事が安定している」みたいに、判断基準がよそにある返事が返ってきます。
そこからもっと掘り下げてみると、「実は…」と子供達は恐る恐る
「料理に興味があります」
「動物と仕事がしたい」
「心理学が面白いと思ってて」
と、個人的な “Passion” つまり「情熱」を教えてくれるのです。
興味深いことに、こういう内面ジレンマを持つのは、いわゆる「勉強のできる子」達に多い。つまり、子供の教育に積極的に関わってきた親を持ち、手をかけられ、言われたことをでき、これまで「いい息子」「いい娘」「いい生徒」をやってきた子達です。
「親として正しいことを教える」と「親の希望を植え付ける」はとても微妙な線引きが必要で、やはりそのバランスを見極めるには、子供との日頃からの対話や、客観的な観察が必要になるのではないかなと思いました。
同時に、「子供の選択を受け入れる」は「なんでも子供の好き勝手にやらせる」とは別ものです。現実には金銭的・時間的・物理的な拘束が存在するし、やらせたくてもやらせられないことはたくさんある。
ただ、子供が「自分の声を一応は聞いてもらえた」と思えるかどうか、親の意向を貫くにも、子供は納得したか、ということです。
もしうちの子達が動画のランドセル選びをやってたら、最初の選択で私はただ喜ぶのだろうか、それとも「あれ?そうなの?」と違和感を持てるだろうか。
私は自分の子供達が欲しいもののことを、どれだけわかっているのだろうか。
どうでしょうか。