サンディエゴで就職:その一 ~決意、給料、デイケア~

初めまして、Mikaです。

 

サンディエゴにあるコミュニティカレッジ、グロスモントカレッジの入学課で留学生スペシャリストとして働いています。

3人の子育てをしながらコミカレ、大学、大学院を卒業したエピソードについては、アメ10でも書いているので、ぜひ読んでください。

今日はその前に戻って、どうしてアメリカで学校に行こうと思ったか?を書いてみたいと思います。

 

私が結婚と出産後、初めての仕事に就いたのはサンディエゴに住みだして半年も過ぎたころだったと思います。キッカケは生活苦。笑。

今では笑って言えますが、このままでは家計が不安、と思ったのは長男の一歳のお誕生日パーティーの準備をしていた時でした。バースデイハットやらケーキやらを買ったら銀行の残高がゼロになってしまいました。

そもそもサンディエゴへ来たのは当時海軍に勤務していたアメリカ人夫の転勤で、横須賀基地の海軍病院で生まれた息子はまだ10ヶ月。猫二匹も連れて右も左もわからないサンディエゴへ移住。

夫の元同僚が住んでいたチュラビスタの静かなアパートに空きが見つかり、彼の日本人妻Mさんとも歳が近く意気投合。ラッキーなスタートでした。当時は日本人コミュニティーも無く、情報は友人からのみでした。

 

住みついて2カ月後、息子の一歳の誕生日にパーティーを計画して、アパートの中庭でガーデンパーティー。

プレゼントには、おもちゃ屋さんで子供三輪カー、パーティーグッズ、ケーキとBBQグリル用の食べ物。

今思うとサンディエゴ新人だった割には、着々と準備をし、知りあってすぐのファミリー六家族ほどを招待して、近所のガキンコも参加して、楽しいパーティーが出来ました。

しかしながら、息子の誕生日は月末で、パーティー準備で買い物をしたら銀行の口座がスッカラカン。(今でもこんな表現、若い読者に通じますように。)

日本にいるときは多少無駄使いしてもこんなことはなかったのに!

それに物価はこっちの方が安くておもちゃもパーティーハットも日本で買うよりは安かったハズ。

どうしてかというと、夫の海軍のお給料は、日本では、住居費やらのお手当てを貰っていたのが無くなってしまったからです。母としてはこれから子育てにどんどんお金がかかるのにこんなに少ない手取りでやっていけないのではないかと不安になってしまいました。

 

<働く決意>

こんなことではいけない!なんとかしなければ!

もともと私は、日本ではG英会話学校で非常勤職員として働いていたのですが、息子の妊娠と夫の転勤を機に退職したのです。

 

日本人妻のMさんと、ルームメイトのTさんも、日系の会社で働いていたので仕事探しについて相談してみました。

そうしたら、メキシコでテレビを作っている日系企業S社が日本人を探しているとのこと!なんというタイミング!早速履歴書を送りインタビュー。

インタビューは日本人駐在員二、三人と、そのあとアメリカ人とで二回あったかと記憶しています。

 

はっきり覚えている事はたった一つ、給料の交渉でした。

優しそうで人当たりの良い部長さんが「それで お給料はどれぐらいを希望されていまか。」と聞くのです。

「いくらくらいって、多ければ多いほどいいにきまっているじゃありませんか、ぶっちょおさん!」などとおどけるわけにもいかず、焦りまくったわたしはMさんが何かの話しで「時給6ドル50くらいが・・・。」と話していたのを思い出し、そのまま「時給6ドル50くらいでしょうか。」と言ってしまいました!

それをMさんに話したら、「なに〜?10ドルは欲しい、って言えばよかったのに。」

多分当時の最低賃金が5ドルいくら、日本でもうどん屋さんで働いて650円位貰える程度だったでしょうか。

日本の英語学校で教えていたときは2200円くらい貰っていたのが とは思いましたがなにせアメリカで初めての仕事。それでも採用通知を頂いて6ドル50でも嬉しかったのを覚えています。

 

<子供を預ける>

しかしながら次の関門は息子の保育。

これもMさんが、同じくS社の別部門で働いている2人の子持ちの日本人母が子供を預けているファミリーデイケァを紹介してくれました。

彼女は離婚して一人で子供二人を預け、秘書の仕事をしていました。

彼女が紹介してくれたデイケアに決めた理由は「ジョアンは自分の娘も四人居て、学校から帰って来ては、預かっている子供達と遊んでくれて、お食事どきには大きなファミリーみたいなのよ。」と聞いて素晴らしいなと思ったから。

いま思い出すと古い借家で決して裕福ではなかったジョアンデイケアですが、うちの長男が人当たりがよく、他人との会話も上手いのは、このディケアでたくさんの子供たちと接したからじゃないかな、とも思うのです。(三つ子の魂・・・ですか。)

二歳のときの長男の誕生日にはデイケアで大きな手作りケーキを前にして、仲間の子供たちに囲まれた写真を撮ってもらいました。楽しそうでした。

 

ともあれ、稼いだお金はわずかで、保育代を払うと何百ドル残ったのでしょうか。わずか。

今なら稼いだお金を社会に還元とか言って社会貢献したなと思えるけど、その当時はそれでも助かってたんでしょうね。

お昼は買わないで、前日の残り物をお弁当に詰め、レンジでチンして温めて食べるという慎ましい習慣は、この時期から始まりました。

 

 

 

続く・・・・・・

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です