
数学恐怖症 (Math Phobia) の正体
こんにちは、Erinaです。
“Math Phobia” とか “Math Anxiety” という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
Phobia は「恐怖」という意味で、高所恐怖症 (acrophobia) とか閉所恐怖症 (claustrophobia) なんていう表現で使われます。(アメリカでは高所恐怖症の人より閉所恐怖症の人のほうが断然多い気がするのはなぜでしょうか? “I’m claustrophobic.” なんてよく聞きます)
Math Phobia は数学恐怖症という意味で、正式な言葉ではないかもしれませんが、口語的に使われる言葉です。
この世界に、数学が苦手という人はどれくらいいるでしょうか。
「数学」という言葉を聞いただけで、「あ~、嫌だな」という印象を持つ人はどれくらいいるでしょうか。
かなりたくさんいるはずです。
子ども達の水泳大会で観客席に座っていて、こんなことをふと考えました。
「ここにいる家族のどれくらいが数学嫌いなんだろう?」
と大学で数学を教えている旦那に聞くと、
「90%はそうだね。」
そんなにいるのか・・・と思ったけれど、きっとあながち外れてはいないんだろうなと思いました。
高校の広い水泳プールと観客席には、おそらく200人ほどの子どもと親たちがいたはずです。
実は私も数学恐怖症でした。中学~高校時代のことです。
「数学」という言葉は聞くのも、考えるのも嫌でした。
「それでもやらなきゃいけない」と思うからなおさら嫌で、
やりたくない→できない→なおさらやりたくない→なおさらできない
という負のループに完全に陥っていた私は当時、数学だけでなく、他の教科への自信も持てず、それから自分自身や進路への自信も持てずにいました。中学・高校が楽しかった!と心から言える人が今でもうらやましいし、常に期待よりも不安のほうが大きかった。
数学だけが原因ではなかったかもしれないけれど、やっぱり「数学が好きだ」と思えていたら、きっと自分にも自信が持てただろうし、何かが違ったかもなと思います。
この世の中には、「数学の天才」みたいな人がたくさんいます。(それも男性に多いです)
いや、「天才」と言ってしまうと彼らの努力を無視しているようで語弊があるんですが、三度の食事より数学が好きで、博士号までとっちゃうような人です。
彼らは、パッと問題を見た瞬間、反射的に求められているものがわかる。うちの旦那がそういうタイプで、数学に限らず、世の中の諸々の問題に対してそういう反応をします。
私なんかが「そんなのどうでも良いじゃん」と思うことも目ざとく見つけるので、基本的に面倒くさいのですが、最近は妻として流すということを覚えました。
しかし、そこに問題がなければものすごく無頓着で、超シンプルな手順でも全く覚えようとしませんし、人の気持ちを汲み取るとか、空気を読むなんてことはあまりできません。
あぁ、人間には得意・不得意があるんだなぁ。
数学の天才みたいな人でも、苦手なことはあるんだなぁ。
と思ったのです。
つまり、人間の脳みそというのは誰しも容量が決まっていて、人によって得意な部分もあれば、そうでない部分もあり、それをまずは知ることが大事だと思いました。
そして、そういう数学の天才みたいな人たちと自分を比べる必要は全くないということ。
彼らみたいな人間じゃなくても、数学を十分に楽しめるし、その便利さを活用できるのです。
私は全くそんな数学の天才ではありません。
パッと見た瞬間に、答案用紙が光って答えを導く・・・・なんて経験は一度もありません。
ノートに何度もやり直しの解答を書き、消しゴムで消してはやり直し、計算用紙を何枚も使って、泥臭~く数学をやってきました。
鉛筆を持つ手の、紙に当たる下の部分(小指の外側)が汚ければ汚いほど、つまり、手を使えば使うほど、数学はできるようになる!と信じています。
そんな私が一度だけ、高校で自分の数学に希望を見た瞬間がありました。
それは高3の夏。
周りは進路も絞り、それに向かって必死で勉強していた時期です。
理系だった私は、数IIICの授業についていくだけで必死でしたが、それまでの基礎ができていなかったので、理解度はかなり低めでした。
フラッと立ち寄った本屋で、私は数学の問題集を買うことにしました。
それも数IIICではなく、高1~2年次でやった数IAと数IIBの問題集です。
選んだものは、トピックごとに分けられている本で、説明書きがシンプルで短いものでした。見開きの2ページでトピックが完結するレイアウトで、とにかく読みやすかった。
それを一人で一から読み、確実に理解をし、問題を解く。超基本的な問題が解けたら、少しだけレベルアップした問題を解く。
高3の夏、私は数IAの二次関数から始めたのです。
私は自分の遅れ具合に気づき、心から情けないと思いました。
「どうしてこんなになるまで、待ってしまったのだろう」と、初めて自分を責めました。
放課後、一人で二次関数の問題を解いている自分に、「これは今までのツケを払うための修行なのだ」と言い聞かせて、とにかく焦らずにマイペースで一問ずつ解くことにしました。
そしてそのうちに気づいたのです。
数学は、ステップがいかに大事であるか。
数Iの二次関数を理解していなかった自分が、数IIの三角関数を理解できるはずはなかったのだ、と気づいたのです。
三角関数を理解していなかった自分が、微分積分を理解できるはずもなく、極限値も理解できるわけはなかった。
そう思うと、どれだけ今までの自分が適当に勉強してきたかがわかったし、それが今までの「数学嫌い」の正体だったとわかった今、やればできるのかもしれない、という希望が持てたのです。
それが初めて、自分に少しだけ自信を持てた瞬間でした。
残念ながら、現実にはタイムリミットというものがあり、その年の大学受験に私の数学は間に合わず、浪人決定。
しかし、きっとチャンスがあればできるだろう、という気持ちになれたし、数学に対する食わず嫌いは解消されたわけです。
それから1年後。
私はアメリカのコミカレで数学を再び勉強していました。
今回は、数学と自分自身をもっと冷静に、そして客観的に見ることができたし、数学は嫌なものではなく、ワクワクさせてくれるもの、自分を成長させてくれるものになっていました。
きっとこうやって数学とハッピーな再会をするために、この1年は必要な時間だったのだ、と思ったのです。
結果、応用数学専攻でそれもアメリカで大学卒業。ギリギリではなく、満を持しての卒業でした。
こうやって自分自身の経験を振り返ってみると、数学恐怖症の正体は自分のメンタル的なものであり、結局は自分との戦いなのだ、ということを痛感したわけです。
スポーツや音楽などをやっていたら誰もがぶち当たる「スランプ」という壁があります。
本当に好きなら、もがいて、体当たりして、苦しんで、それでも乗り越えようとする壁で、乗り越えたときは少し成長した自分がいる。みなさん、経験があるはずです。
しかし、これが数学で起こると、「私にはセンスがないんだわ」とか「自分は数学に向いてないんだわ」とあっさりやめてしまう。
加えて、周りがみんなそうだから、「数学ならやめてもいい」というmutual agreement (暗黙の了解みたいなもの)ができている。
それが私にとって、すごく残念なのです。
大学で数学専攻を決めたときは、ただ単に自分が数学をやっていて楽しかったから、だったけれど、最近になって、教職の道を選ぶことになったのはやはり、子どもたちがもつ数学による不安を一人でも多く取り除いてあげたい、数学を通して自分に自信を持てるようになって欲しい、と思ったからでした。
数学は確かに簡単な教科ではありません。
勉強するのも大変だし、教えるのも大変です。
だけど、嫌いになる必要はないと思うのです。
ましてそれが原因で自分を嫌いになる必要は全くないし、親と喧嘩になる必要もない。
だから、まずは自分のできるところから、たとえそれが小学校で学んだことだったとしても、戻って、絡まった糸を少しずつほどく作業をすることが大事。
自分の興味を持てることを探して、「できた!」と思えることから始めることが大事。
そうすれば、Math Phobia なんて消えていくはずだし、もっと身近で本当の意味での数学教育というものが広がるんじゃないかなと思います。
Erinaさん、素晴らしい先生になりそうです!
あと、Erinaさんも問題集体験の部分読んで思ったのですが、親が問題集をさせるより自分はこの分野が苦手だから勉強しないとって思わないとダメなのかな。。。って感じました。私も大通りで降りて(地元話題w)本屋さんで自分で問題集探してました、そういえば。。。
りょうこさん、こんにちは~!
ありがとうございます。頑張ります・・・笑
そうですよね、やっぱり本人の気づきが最初の一歩ですよね。
うちの親は勉強!勉強!とうるさくはなかったものの、やるべきことはやりなさいよ、という主義でした。そういうときって、子どもって何をやるべきか、一番よくわかってるんですよね、実は。
大通り!笑
私も地下鉄東西線で高校に通ってました。高校は円山公園で、新札幌の家からでしたねぇ・・・。(私も地元ネタw)
わ〜同じ〜。うちも私、「勉強しなさい」って言われたことなかったけど、「ちゃんとやるべきことはやりなさいよ」って感じでした。無言のプレッシャーというか(笑)
きゃーきゃー。ちょう地元ですわ。うちは大谷地から乗ってました〜!
そうなんです!何も言われないから、罪悪感だけが募る、募る・・・笑
大谷地、近いですね!
うちの母が交通局で働いていたことがあったので、大谷地はよく利用していました。
だいぶ変わったんでしょうね、あのあたりも。