Politically Correct とはどういうことか

こんにちは、Erinaです。

 

今回の大統領選挙をきっかけに、日本語でもよく使われることになったこの言葉。

 

“Politically Correct”(直訳では「政治的に正しい」)

“Political Correctness”(政治的な正しさ)

 

聞いたことはあるけど、実際にはどういうことかご存知でしょうか。

 

私もこの言葉を聞いたのは、アメリカに来てからのことで、おそらくコミカレ時代だったと思います。

それも授業で「こういう言葉がありますよ」とフォーマルに教わったものではなくて、友達同士の会話で聞いて、「あぁ、そういう言い方をするのね〜」と知った言葉という印象です。

おそらく、友達がなんらかの発言をした際、自身の発言に対して、

“I don’t know if it was politically correct.”

とかそういう言い方をしたのではないかなぁと思います。

 

 

どういうことかというと、アメリカには、ご存知のように、ダイバーシティ(多様性)と呼ばれるものが存在していて、その相違性をお互いにリスペクトすることが必要とされます。

人種、宗教、性別、年齢、文化、言語、セクシュアリティなど、「自分と全く同じ」ということがほとんど起こりえない世界です。

日本のように、小学校からみんなで前へならえ、中学高校では制服と規定かばん、その後はみんなで大学進学・就活という文化で生まれ育つと、この「みんな違って当たり前」のアメリカ文化に戸惑うのは、当然のことと言えます。(まぁこれについては長くなるのでまた別の記事で書きたいと思いますが)

 

 

で、そのダイバーシティをリスペクトする、という点に戻って。

「みんな違って当たり前」というものが根底にあると、「じゃあ一緒に何かする時は、その違いをみんなで理解しよう」という姿勢が必要になってくる。

その姿勢こそが、”Political Correctness”です。

 

 

ここでの「政治的に」というのは、ワシントンDCで行なわれている、政治家たちによるアメリカ政治に限られたものではなく、もっと広義での政治。つまり、人間が多数集まった時に生まれるダイナミズムとか、総意とか、民意とか、そういうものと考えてください。

たとえば、アメリカのある町で日本人会があったとします。

そこで、「○○国の人ってこうだよね!」とある意見がまとまったとします。それは日本という国全体を代表する意見ではなかったとしても、そこに集まった人たちによる民意であり、ダイナミズムになります。

その意見がポジティブなものだったり、そこできちんと完結していたのなら良いですが、もしネガティブな意見として外部に出てしまったら・・・?

大変なことになるかもしれません。

 

つまり、”Political Correctness”を備えている人というのは、アメリカという社会に存在しているダイバーシティを理解して、「言って良いことと、悪いことの分別をわきまえている人」のこと。

 

そして”Political Correctness”を備えている人はSophisticated(教養のある人)で、備えていない人は、無教養で粗雑、というイメージがあることも確かです。

それはどこから来たかというと、アメリカ、特に西海岸や東海岸や都市部、大学などのアカデミックな場所では、ダイバーシティがものすごく進んでいますから、日常的に”Political Correctness”を意識することが増えます。しかし、アメリカ中西部の田舎のエリアでは、そういうダイバーシティに触れることが少なく、何が”Political Correctness”であるかを体験する機会が少ない。

(そしてそれは日本でも言えることで、都市部に住む日本人と、農村部に住む日本人では、「ガイジン」に対する免疫力が違いますよね。)

 

 

しかし同時に、”Political Correctness”を唱えすぎて起こる問題があるのも現実です。

 

それは、「本音を言えない」ということ。

 

「この場でこれを言っても良いのだろうか?」と気にしすぎていると、それは個人の表現の自由を奪うことにもなりかねません。

 

たとえば、大多数の人が「それってちょっとおかしいんじゃないの?」と思っていたとしても、「マイノリティにとってはそういう文化だから」と言われてしまったら、疑問を持つ余地がなくなってしまう。実際に社会的におかしいことだとしても、受け入れざるを得なくなってしまう。

そういう状況が(私の目から見ても)かなり頻繁に起こっていて、「アメリカとしてまとまる」ということと、「ダイバーシティをリスペクトする」という相反する動きのバランスが崩れてきているように思えるのです。具体的にどういうことか?というのはまたこれも別の記事にしますが、とにかく、「アメリカで暮らす本来の目的を見失わないようにしようよ」と言いたくなることが、外国人の私から見てもかなりある。

今回の大統領選挙で、トランプが勝利した理由が、この”Political Correctness”に疲れた人たちの票を得られたから、とありますが、やはりそれは大きいでしょうね。この数十年間、「移民、ウェルカム!ダイバーシティ、バンザイ!」でやってきたアメリカですが、それが行き過ぎてしまった反動なのだと思います。

 

 

たとえば、大学や就職などで、“Affirmative Action”(アファーマティブ・アクション)という言葉を聞いたことがあるかもしれません。

これは、非白人層(黒人・アジア人・ヒスパニックなど)を積極的(優先的)に受け入れなさいという政治的な動きで、市民権運動が盛んになった1960年代に始まったそうです。当時はやはり、白人層がどこに行ってもマジョリティで、そういう積極是正的な制度なしでは、マイノリティにはチャンスが回ってこなかったのでしょう。

 

しかしそれから約50年。

 

有名大学のほとんどは、アジア系の学生が占めているアメリカ。

ちょっと前のことですが、「同じ成績なのに、Affirmative Actionのせいで、今度は白人学生が入学できない」という“Reverse Affirmative Action”なんていう言葉も生まれ、裁判になったりしていました。

 

 

こうやって、一つの動きが進みすぎると、その反動で物事が逆方向に動く、というのは、生の社会では当たり前のことで、アメリカではそのスピード感が見ていて面白いなぁと思うところです。

 

アメリカで生きていくということは、こういう社会的な動きを理解し、なおかつ自分の意見を主張できること。それが難しいところだなぁと私は個人的に感じています。

周りを無視して自己主張することはもちろん良くないし、かと言って、周りを気にしすぎて自己主張できないというのも通用しません。

「どこまで言って良いのか、むしろ言うべきなのか」というボーダーラインを手探りで見つけるまでは、自己主張の練習も必要になってくるでしょうし、私の場合は、大学やESLでのライティングのクラスをとったことで、そのスキルが身についたように思えます。

この国で生きる上で、個人的に感じることは、ダイバーシティをリスペクトすることや、Political Correctnessを備えることは大大大前提だけれど、それ自体が目的になってしまって、目の前にある仕事やミッションを片付けられなくなるのは本末転倒だということ。ゴールを達成する上では、そういうそれぞれが抱えるハンディキャップを飛び越えて、個人としての能力や実力を発揮できなければ、この国で、アメリカ人や他の外国人たちとやりあうことは、無理でしょう。

アメリカで成功するとはそういうタフでシビアな世界です。

でも最後に勝つから楽しいんですけどね。笑

 

 

どうでしょうか。

 

 

 

 

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