
アメリカを知ろう:エレノア・ローズヴェルト
こんにちは、Erinaです。
先日、こんなニュースが流れました。
2020年に発行される新しい10ドル紙幣には、初めて「女性」が印刷されるそうです。(でもまだ5年も先・・・)
現在はアレキサンダー・ハミルトンで、彼はFounding Fathers(アメリカ建国の父)の一人でした。
今回、この「新しい顔」になる女性は誰なのか?と盛り上がりを見せているアメリカ。
特に、昨今の人種差別関連の動きもあり、アメリカはまた次のステップへと動きを見せる中で、誰が選ばれるか?というのは歴史の証人になる気がします。
私も数多いアメリカ史の中の女性たちを考えてみたのですが、その中でもやはりこの二人が強いのではないでしょうか。
- Eleanor Roosevelt(エレノア・ローズヴェルト)
- Rosa Parks(ローザ・パークス)
名前くらいは聞いたことがある、という方は多いはずです。
エレノア・ローズヴェルトは、アメリカ大恐慌(The Great Depression)中の大統領フランクリン・ローズヴェルト(ニュー・ディール政策をやった人ですね)の妻。
ローザ・パークスは、人種差別がひどかった米南部で、バスの黒人専用席に乗るのを拒否し、黒人の人権運動のきっかけになった女性。
Eleanor Roosevelt(エレノア・ローズヴェルト) | Rosa Parks(ローザ・パークス) |
あ~、そうだった!
思い出しました?
で今回、この二人のことをもっときちんと知ろうと思い、図書館で子供向けのバイオグラフィーを借りてきました。
彼女たちの物語を読んで気づいたことは、「この年齢になってみて初めて、理解できることがたくさんある」ということでした。
私は子供の頃、歴史が大嫌いでした。年号はさっぱり覚えられないし、固有名詞の漢字は難しいし、カタカナはこんがらがるしで(笑)、大の苦手だったのですが、やはり今になって、こうやって「一女性のストーリー」として語ることの面白さがわかるようになったのです。
“I can relate myself.”(自分と関連付けられる)な部分が多く、アメリカ史上では偉大な彼女たちも、自分と同じ一人の女性であり、妻であり、母であり、娘であり、女友達であり、30年分の出会いと別れがあったからこそ、共感できることが生まれるんだなと思ったのです。
私がアメリカに住んで13年。
市民権も獲得し、仕事と家族を持ち、アメリカ人たちと肩を並べて生きている感覚はあっても、やっぱりどこかで自分は「外国人」なのは、この国の歴史を知らないからだな、と常に思っていました。今回、表現がシンプルな子供用バイオグラフィーを読むことで、アメリカ史がとても身近に感じられたし、これからもこうやって気軽に勉強してみようと思います。
まずは、エレノア・ローズヴェルトについての本を読んだので、書いてみようと思います。
私が今回、読んだのはこれです。 (画像をクリックするとAmazonのページに行きます)
Eleanor Roosevelt: Activist for Social Change by Allison Lassieur from Scholastic
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エレノアは1884年のニューヨークで、父・Elliot Rooseveltと母・Anna Hallのあいだに生まれました。
父側のRoosevelt家は有名な政治家系で、Elliotの兄がTheodre Roosevelt大統領にあたります。

エレノアが10歳のときに、母と弟がジフテリアで亡くなりました。現在では予防接種で防げる病気も、当時は死に至る病気だったのです。
また、12歳のときに、アルコール中毒だった父が死亡し、しつけに厳しくも愛情深い祖母(母方)と叔父叔母に育てられることになりました。
エレノアが15歳のとき、ロンドンの私立女学校に留学。全寮制のこの学校で、エレノアは様々な勉強やアクティビティに励み、女性としての自信を育んだそうです。
また、そこでの恩師であるMarie Souvestre(マリー・スーヴェスター)に出会い、女性活動家である彼女から多大な影響を受けました。エレノアはマリーの出張旅行日程の調整や手伝いなどをしたそうです。

この学校を卒業し、アメリカに戻ってきたエレノア。
19歳で遠い親戚にあたるFranklinに出会い、婚約します。彼がのちのFranklin Roosevelt(フランクリン・ローズヴェルト)大統領です。

フランクリンの母・Saraはとてもコントローリングな性格で、新婚夫婦の住居を勝手に決め、しかもドア一つで自分の家とつながっているようになっているなど、エレノアにとって我慢を強いられる部分が多かったようです。
家具やインテリアなども全てサラの言いなりになっていたフランクリンに対して、エレノアの不満が募っていきました。つまりは「マザコン」(英語では”Mama’s boy”なんて呼ばれますね)だったわけです。
エレノアとフランクリンには6人の子供がいましたが、そのうちの一人は新生児のうちに亡くなったそうです。
ある日、エレノアはフランクリンの荷物の中にラブレターを見つけます。それは、フランクリンの愛人・Lucy Mercer(ルーシー・マーサー)からのものでした。
フランクリンは、エレノアと別れて、ルーシーのもとに行くと約束していたのです。
それを聞いてエレノアは激怒。フランクリンに「離婚しましょう」と切り出したものの、政界から切り離されることを恐れたフランクリンの母・サラが(ここでも)「別れちゃダメ!」とフランクリンを説得。フランクリンに謝罪させて、結婚しつづけるように説得したそうです。(情けないなぁ、フランクリン・・・)
このあたりから、エレノアとフランクリンの結婚生活は、「政治のため」と割り切ったものになったようで、お互いにwin-winでいるための夫婦生活だったようです。フランクリンは、強い政治家系のバックボーンのため、エレノアは女性活動家として、マイノリティの人権保護や教育などに携わるために、お互いの地位が必要だったのです。
1921年、エレノアが37歳、フランクリンが39歳のとき、休暇中にフランクリンがポリオにかかりました。
当時はこれも予防接種がなく、死に至る病気でした。幸いにも命は取り留めたものの、両足が麻痺したフランクリンは、生涯、歩くために杖や歩行器などが必要な状態になりました。
フランクリンの病気をきっかけに、エレノアと義母・Saraの立場が逆転します。
フランクリンを身体障害者としてリタイヤさせたかったサラに対し、「政界に残るべきだ!」と強く主張したエレノア。この戦いにエレノアが勝利し、サラのコントロールが激減したのです。
当時、ニューヨーク州をベースに政治活動を行っていたフランクリン。
叔父のTheodore Roosevelt大統領は、リパブリカン(共和党)所属だったのですが、リベラルなエレノアに説得され、フランクリン自身はデモクラ(民主党)所属になっています。(リパブリカンとデモクラについてはこちらで)
1932年の大統領選にも、デモクラとして勝利しました。
そしてこの時に発表されたのが”New Deal”(ニューディール政策)です。1929年に始まった、アメリカの大恐慌 (The Great Depression)から国を救済するための政策です。
国費を使ってダムや道路などのインフラストラクチャーを強化→雇用を増やす→景気復活
という政策が大成功し、アメリカは歴史的な不景気を脱出しました。
グランド・キャニオン国立公園や、ラスベガスを訪れた人は必ず行ったことがあるだろう「フーバー・ダム」(Hoover Dam)もこの時に建造されたものです。

フロリダでは、本土からキーウェストに続くUS Route-1のハイウェイもこの時のプロジェクトだそう。

特に行ったことがある場合は、「お~、このプロジェクトが当時のアメリカ人の生活を助けたのか・・・」と思うと、感慨深いですね。
この大恐慌、ここ数年をアメリカで暮らした人なら少し関連付けられるかもしれません。
2006~7年あたりから始まった不動産バブルの崩壊は、私たち一般市民の生活に少なからず影響を及ぼしました。
金融業界での大幅レイオフ、自動車業界の破綻、失業率もなかなか下がっていきません。自動車メッカのデトロイトが荒廃した頃、成人の4人に一人は失職者だという話も聞きました。
景気が悪いとはどういうことかというと、
利益が生まれない→解雇→仕事がない→収入がない→消費がない→利益が生まれない
の悪循環。
つまり、これに介入したのがニューディール政策だったのです。(今日のアメリカも、戦争より国内でそういうことをやってくれたらいいのにねぇ・・・・。)
というアメリカのダークな部分をカバーしたフランクリン・ローズヴェルト大統領が、歴史に名を残したのはそれだけではありません。
なんと4期も大統領をした彼は、World War II、つまりは第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まったときのアメリカ大統領でもありました。
現在、アメリカ大統領は最高で2期までしかなれませんが、彼は3期め任期を終え、4期めの1945年3月29日に亡くなっています。戦争もピークに近づいた頃で、エレノアは当時61歳でした。
その日、体調がすぐれなかったフランクリンは、休養のためにジョージア州の別荘を訪れていました。
そこで亡くなったとき、かけつけたエレノアが発見したのは愛人のルーシーでした。忙しく政治活動をしていたエレノアを置いて、フランクリンの最期にそばにいたのは愛人だったのです。
当時、「政治のためのパートナーシップ」と割り切っていたローズヴェルト夫妻。
フランクリンは大統領として、エレノアは女性活動家として、それぞれにミッションを持って活動していました。
エレノアは、足の悪いフランクリンのために、出張旅行をし、アメリカ国内で市民たちの声を聞きました。
面白いエピソードは、毎晩、寝る時に、フランクリンのベッドサイドにカゴがあり、エレノアがその日に思いついた政策や意見などを紙切れに書いてはそこに入れていたそうです。フランクリンはそれを朝に読み、彼の大統領としての決断や政策に影響していたのだとか。
エレノアはまさに「影の大統領」だったと言えます。

エレノアの聡明さや知的センスは、フランクリンも常に一目置いており、周りのスタッフもそれをリスペクトしていたようです。エレノアの正直な意見を引き出すために、フランクリンはわざとエレノアを議論に引っ張り出して、挑発していたとか。
エレノアはエレノアで、そういう役割を楽しんでいたようだし、特に自分が「女性大統領」として表舞台に立つことは、当時のアメリカ社会では不可能だとわかっていたのか(私はそう思います)、わざとフランクリンを表に出していたように感じます。自分が表に立てなくても、自分の意見や頭脳が社会に反映されることを知っていた、とてもスマートな女性だと思うのです。
また、公にはされていませんが、エレノアは同性愛者だったのではないか?とか、ボディガードと不倫関係にあったのではないか?といううわさが常にあり、フランクリンとの夫婦生活が「政治のため」と割り切ったものであっても、納得される部分が大きいようです。
エレノアの同性愛者説も、仮面夫婦説も、今となっては真実はわかりません。何が真実かを知っているのは本人たちだけであり、「歴史」として残された部分をどうやって受け取り、どうやって解釈するかは現代に生きる私たち次第だと思うのです。
フランクリンの死後、トルーマン大統領(日本に原爆を落としたときの大統領ですね)が就任し、エレノアはホワイトハウスを退去します。しかし、エレノアの才能を知っていたトルーマンは、彼女をUnited Nations (UN)、つまりは国連のアンバサダー(特命員)に任命します。
国連では、経済や国際関係などの分野につくはずだったエレノアですが、当時の男女差別やエレノアへの偏見などがあり、彼女は「人権」についての分野に就任しました。
それにも関わらず、与えられた場所で自分らしさを発揮したエレノアは、1948年に署名されたThe Universal Declaration of Human Rights、つまり「世界人権宣言」の設立に貢献したのです。彼女が64歳のときでした。
その後、彼女は前線での活動からばっさりと身を引き、若い頃に女友達と作った別荘などで時間を過ごすようになります。この女友達の中には、私立女学校の校長なども含まれていて、エレノア自身が教鞭をとることもありました。
そして1962年に亡くなっています。
・・・と、私なりにまとめてみましたが、どうだったでしょうか。
歴史に残る偉大な女性活動家も、幼い頃は両親の愛情に恵まれず、多感な10代を過ごし、恋に落ち、家庭と仕事の間で揺れたのです。
その中で影響力のある人たちと出会い、別れを体験し、自分なりの熱意を持って、「これだ!」と思えることをとことんやってきた。そういう一人の女性だったのです。
若い頃は「単なる歴史的出来事」でしかなかったことも、今だから想像できたり、同情的になれることに気がつきました。
私が最近になって思うことは、「最初からすごい人はいない」ということ。
偉大な人物たちの、結果だけ、今だけを見てしまうと、「最初からかなわないな・・・」と思ってしまいがちです。
だけど、誰にも「スタート地点」はあり、「苦難」もあったのです。
そういうプロセスを無視せず、そこから私たちも学ぶべきなんじゃないかな?と歴史を読んで思うのです。