便利さと引き換えに失うもの

こんにちは、Erinaです。

 

今日のテーマ、「便利さと引き換えに失うもの」とは、なんだと思いますか?

 

 

 

私が思うのはズバリ、

 

 

「工夫」

 

 

です。

 

工夫(くふう)という言葉、最近はあまり聞きませんね。

 

どうしてでしょうか?

 

工夫しなくて良くなったからです。

必要なものは全てパッケージに入って、お店で売られていますから、わざわざ工夫したりしなくて良くなった。

 

そう思いませんか?

 

 

モノだけでなく、人との付き合いもかなり便利になりました。

コミュニケーションツールが発達したおかげで、人と待ち合わせて会うということがすごくカジュアルになりました。

昔は、手紙で「いついつどこどこで会いましょうね」と何日も、何週間も、何ヶ月も前から約束しては、それを絶対に守っていました。

 

 

便利さがない状況では、人は何とかして必要なものをこしらえようと、工夫をします。

人間らしく、脳を使って「創造性」を駆使し、手を使い、動き回り、人から知恵をもらい、自分だけの「何か」をこしらえる。

そもそも、私たちはそうやって生きてきたはずなのです。

 

しかし、それをしなくなると、色々なものや人へのありがたみが希薄になり、それが欠けていても「ま、いいか」と簡単にあきらめもつくようになる。

または、「あって当たり前」と思うようになって、果てはあるべきものがないと文句まで言う。

 

「どうして、あいつはあるのに、私にはないんだ?!」

 

なんてね。

これ、英語で”Entitlement”と言われますね。

 

努力しましたか?

工夫しましたか?

脳みそと手を使って、体を動かして、人から知恵をもらって、自分だけの何かを作る努力をしたのか?

 

と聞きたい。

 

アメリカは日本に比べると、まだまだ原始的な部分がかなりあって、物事の流れがシンプルです。

「こうなってくれてたら、便利なのに!」と思うこともあるのですが、何かを便利にするということは、そのシステムを複雑にすることでもあり、運営する側としてはシンプルなほうが効率的という効率重視だからでしょう。便利だからと言って、必ずしも効率的ではないわけです。

 

そういう環境では、面倒くさいことをいちいちやらなくてはならなかったりして、不便です。

 

しかしその不便がアメリカで暮らしている人たちの脳みそと手を使うことになり、体を動かして、人の知恵や意見を聞くという作業をさせています。

 

人と人のつながりはまだまだ強くて、ロボットではない人間らしさが色々なところににじみ出ているし(良くも悪くも)、多少、不便でも、私はやっぱりそういう環境が好きだなと思うのです。

 

 

2011年に起こった東北大震災後、ここサンディエゴでも支援活動が始まりました。

日本人たちが集まって、様々な団体が組織され、人が集まる場所が増えました。

 

私の目に留まったのは、そこにやってくる「お母さん」たちでした。それも幼い子どもを持つお母さん。

 

幼い子どもを持つと、人が集まる場所、それも子どもが静かにしている必要がある場所に、なかなか出て行けないものです。

 

「うちの子はじっとしていられないから、行けません」

 

それはどの親も感じる不安です。

当時、うちの子ども達も幼児だったので、それは痛いほどに共感できました。

 

考えてみてください。

 

動き回れるようになった子どもが、1時間も2時間も、じっとそこに座って大人の話を聞くなんて、絶対に不可能です。

いい子・悪い子なんていう判断自体がばかげています。おそらく生物学的に、無理なことなのですから。

大人ですら、わからない外国語で、全くの専門外の大学の講義を3時間聴け、って言われたらどう思いますか?絶対に嫌ですよね?

 

じゃあ、幼い子どもを持つ母たちは、そういう場所に出向くべきではないのか?というと、それも「ノー」だと私は思うのです。

 

そこで、最初のミーティングで、私はこう言いました。

 

「みんなで工夫しましょう。小さな子どもがいても、こうやって、集まりに参加できるように。」

 

そういうと、お母さんたちが「ウンウン」とうなずいているのが見えました。

 

それは、DVDを見られるスペースを用意するだとか、ゲームやマンガをどっさりと持参するだとか、お母さんたちが交代で子ども達をみるだとか、そういうことでした。

子どもがぐずりだしたら抜ければ良いし、もう帰りたいって言ったら帰れば良い。

 

そういう工夫をしないと、個人ができることってどんどん限られていって、自分にとって楽なことや簡単なことしかしなくなるんです。

他人の痛みや苦労も見なくなるし、同時に、人のありがたみにも気づけなくなる。

何より、そこで起こりうるいろいろな可能性を潰している。

 

「楽だから」

「便利だから」

「面倒なことはしたくないから」

 

という理由で、そういう可能性をつぶすことはなんてもったいないんだ!と私は思うし、そのためなら、工夫をしながら一つ一つ乗り越えたいと私は思います。

 

If that’s what it takes to do what you want to do, then, why don’t we do it?

 

(それが君のやりたいことをやるのに必要なことなら、やろうよ。)

 

 

 

私は、うちの子どもたちに将来やってもらいたいことが一つだけあります。

 

それは、「外国生活」です。

 

外国生活は不便の宝庫です。

 

言葉もわからなければ、生活リズムもわからない。

人もわからないし、システムもわからない。

 

これまで「当たり前」に存在していたものが、根っこからなくなります。

 

それは人間として、それまでの価値観を揺るがすことになるし、自分と向き合わざるを得なくなるし、他人を心の底から受け入れざるを得なくなる。

 

私は不便という体験が、人としてものすごく成長させてくれることを知っています。

だから、不便というのは、私の人生にとって必要不可欠の要素であり、わざわざ面倒くさそうなことにどんどん入っていくのも(笑)、私自身がそういう成長の機会を渇望しているからだと思うのです。

 

 

どうでしょうか。

 

 

 

 

 

“便利さと引き換えに失うもの” への2件の返信

  1. その通りだ。インターネットが無くなれば全てが分かる筈だ。誰でも何でも書けること、言える事に感動何かある筈もない。(*_*)インターネットで知った振りをしてる人が多い事か、人は物事をやらなければ分からない事が沢山あるのだ。(*_*)経験や体験、行動に移すから価値があるのだ。スポーツ選手や成功者は何かをやったから得られたのだ。(*_*)何もしなければ得られない上に失敗もしないのだ。人は勇気や覚悟が無いから何もしないのだ。知ってるだけでは前に進めないのだ。(*_*)だから日々自分自身が考えて向上しないと行けないの

  2. 金星宏幸さん、コメントありがとうございます。
    お返事が遅くなって申し訳ありません。

    そうですね、インターネットが普及して、情報や知識の流れがとても簡単になった分、中身が伴わないものがたくさんあると思います。
    そういうものを見分ける目が必要になったのと同時に、それって本末転倒?!と思うことも多々あります。
    目の前にある本当に大事なものを見失わないようにしたいものです。

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